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zoom RSS 専門家ほど先入観にとらわれているということ

<<   作成日時 : 2014/01/24 15:18   >>

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まじめで飼いならしやすい人間ほど専門家になるものである。継続して一つの分野の知識を積み重ねていく間に、自分の学んでいるものが偏見に満ちたものであるかもしれないなどと思ったなら、学ぼうなどという気にはなかなかなれないのが人情というものだ。大学教授などは世間の流れに逆らうような人物が目立つようだが、これも彼らの学生時代は存外真面目で常識というものを素直に受け入れる性格であったことの表れというものだ。

恐らく日本人全体が共通してとらわれている錯覚に、便は汚いというものがある。臭いが強烈なだけで、それほど不衛生なものでもないから、中世のヨーロッパなどではし尿を往来に捨てておくのがふつうであった。日当たりのよい夏の時期だと、半日ほどで土のようにサラサラになるが、冬場は凍り付いてよく人が滑って転んだそうだ。家の中の専用の倉庫にためておくというしきたりもあったらしいが、よく汚物があふれて隣の家に流れ込むというのもあったらしい。それでも、ペスト菌などを運ぶ温床にはならなかったようだ(*)。臭いを気にしなければ、人目を避けなければならないほど汚らしいものではなかったというのが世界の認識らしい。水分さえ程よく絞れば、たちどころに泥土と化すのが糞というものであるようだ。ちなみに、自治体のほとんどがペットの糞をごみとして出すことを許容しているのも、それが衛生上問題がないからであろう。糞はメタンを多く含んでいるから、生ごみなどよりよほど燃えやすい。むしろ固形の糞は燃料になるので、燃費の節約のために奨励したいところなのかもしれないが、大っぴらに公認すると、水気を大量に含んだまま集積場に出すものが現れるだろうというのが問題なのだと思う。ウォシュレットなどという便利なものが普及したせいで、日本人の免疫力が著しく低下したというのもありそうだ。ちなみに、節水とか節電といっても、必ずしも節約につながるわけではない。節水などは往々にして下水管のつまりを招いて、藪蛇になる場合もある。トイレの汚物などは勢いよく家周りの排水管からは一度で出るように、ある程度勢いをつけた方がよいのではなかろうか。そうしないと結局高圧洗浄を数年に一度も行う羽目になったりする。こうなると、一回2万円ほどもかかるそうで、全然節約にはならない。政府が家庭の節水を呼びかけるのは、工業用水確保のためだと思ってまず間違いない。あくまで経済発展が第一なのだ。

(*)従来から指摘されていたことだが、ペストは海外で船に潜り込んだネズミによって媒介された。数年前、欧州の研究者が、バクテリアDNA解析から、その当時のペスト菌のルーツが中国の雲南州にある可能性が強いことを突き止めた。しかし、黒死病の大流行のころからヨーロッパの町が不潔であったのかどうかはわからない。不潔にしておいても、ヨーロッパという地勢は意外と菌が増殖しない土地柄であったのかもしれない。臭いはものすごかったようだ。それは今でもヨーロッパを旅した旅行者が時折口にすることだ。婉曲に「埃臭い」とは言っているようだが。いまだにパリの大通りなどはペットの糞まみれであって、一体彼らは鼻が悪いのではなかろうかというものもいる。

そのほか、今は昔のことになると、価値観が180度転換することなど珍しくもない。なちすのT4計画などまさにそうしたものだろう。今でこそ『障害者の安楽死計画』などといわれているが、どうもその実態は安楽死とは程遠い。それよりなによりも、ナチスはおそらく国民の支持を得るためにこの計画を打ち出したのである。「わがナチス党は無駄な国家予算をすべて国民に還元する」ということだ。国民の多くが上に苦しんでいる時代に、障害者に対する補償など愚の骨頂である。その思いが連なると「障害者には天罰を!」という国民の声もあったはずである。現在の感情論で判断すると大いなる誤謬を招くものなのだが、その誤謬も民主政治の根本となる多数決で裁けば真実となる。大衆は虚偽ばかりを好む。今も昔もマスメディアが「そんなことをしてはかわいそうだ」などと大合唱する。ただ異なるのは、主語が障害者であるか一般大衆であるかだけだ。そうすると大衆は『なるほどかわいそうだ』といつの時代でも思う。かわいそうだという気持ちは同じだが、方向が真逆なので、結果はまるであべこべだ。どちらに動いたらどうなるなどという予想は民主主義ではできない。代表民主制のもとで多少の方向性が示されたとしても、大衆の気に入らなければ政権は転覆されてしまうので身動きが取れないわけだ。まあ、今の調子で障害者を救済し続けていったなら、いずれ社会全体が荒廃してゆくことになるだろう。それで昔のような声が大衆間に高まることになる。その繰り返しだ。


ただ人間とは、ロックなどが昔から言い伝えている通り、生まれた時は白紙の状態だ。成人までに自分が特異であるかどうかというのが大体わかる。アーサー・クラークのSF小説に「都市と星」というのがあった。コンピューターのプログラムによって、文明社会が安定して持続するために、1000人に1人くらいの割で登場するのが文明の破壊者だ。面白い考え方だが、人間の体など自然界は皆そのような仕組みで在続している。創造のためには破壊が必要だというのが自然界のおきてなのだろう。ただし1000人に1人程度の存在ではオリジナルとはいえないという設定にはなっている。そうしてそうしたオリジナルの仲間も成長の過程では他の99.9%以上の群集と同じくただのコピーだ。小説ではコピー的存在から目覚めるのは、何か生得的な素質によるものだとされていたようだが、現実の世界ではただの偶然作用かも知れない。1000人のうち999人までが大衆だというのでは何か不気味なので、私は30人のうちの29人が大衆だとしている。ちょうど数としては1億円以上の金融資産を保有するものと同じくらいになる。昔は‘サラリーマンで長者となるのは数万人に1人程度でしかない’などといわれていたものだが、現在は余暇が増えて思索に励むものが増加したせいだろうか、サラリーマンを続けていても存外容易に長者になれるらしい。自由を求めるものが富にしがみつくのは自然の成り行きで、富を求めるものの半数以上が金銭を求めるはずである。残りの半数の内も、土地だとか事業だとか人材といった有形のものがほとんどで、無形文化財といった精神性のものはごくわずかの部分だろう。多分こういったことが上手い表現で描かれていると思うのに、ミシェル・フーコーの「監獄の誕生」という書物があるが、4000円以上もする高価なものなどで購入する気が起こらない。どのみち、フランスの思想書というものはアメリカ産などと違って、時制の表現そのものが思想背景に織り込まれすぎているであろうから、訳本などを読んでも曲解するのが関の山だ。なぜフーコーに惹かれるかというと、思想内容ではなく、顔がピカソみたいであってメリハリがあって面白いからだ。貧相で体格の弱い人間の哲学なら敬遠するだろう。


そうしたわけで、人間社会に存在する大多数の個体はすべてコピー的存在なのだ。したがって世の中に流布するいわゆる民間伝承やらことわざなどというものも、およそ嘘八百で、さかさまをやれば成功するといったものも結構ある。常識を真に受けてそのまま実行しているものはいつまでたってもコピーでしかない。


日常の話でいえば、なぜ大岡裁きのような第三者の判断が必要なのかといえば、喧嘩の当事者双方がコピーだからだ。コピーはインプットアウトプットで動くだけで、自分から考えるということができないから、当然身の回りの物から優先的に規範とする。相手も同じようなので当然意見の食い違いから確執が生じる。まあ、相手がたまたまオリジナルであったという場合も少しはあるだろうが、まずお互いがコピーであることのほうがほとんどだ。そうしてコピーだから自分も他人も同じであると思う。だから、人の身体は頭と同じように誰でも同じ構造をしているなどと信じ込んでいて恥を知らないのだ。それで放射能などにしても、これは健康に良いとか悪いとかの一つの判断しかできない。どちらの主張も正しいということなど思いもよらないのだ。ある事象も別の事象も、同じものを別角度から観察したものであるという事実を理解する能力など、コピーにあるわけがないのである。

談合、馴れ合いの場はいたるところに起きる。マスコミはアラブ社会の閉鎖性をよく口にするが、インターネットの広場などを見ても、『果たしてこれが広場と呼べるものなのか?』と思うほど、閉鎖的な村八分意識にあふれている。人間社会とは斯くも目先の見えないもので満ち溢れているのだ。

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