森の散歩

アクセスカウンタ

zoom RSS 「傭兵の2千年史」を読む。

<<   作成日時 : 2014/10/05 10:22   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

明治大学教授の菊池良生氏の書いた講談社の新書本で、取り扱っている歴史の舞台は「神聖ローマ帝国」で読んだものとあまり変わらないという感じだが、物の見方でこうも事物に対する印象が変わるものであるということに強い印象を受けた。

最近「アドラー心理学」というものが再評価の気配だが、彼の心理学はニーチェの「力への意志」に強く影響を受けたものだ。それだけで30年ほど前だったなら不道徳な教えといわれてきたようなものである。ほとんどすべての凶悪連続殺人犯がニーチェに惹かれていたということもある。過去は現在に合わせてどうにでも変わるということか。勝ち組と負け組が明白にわかれる現代社会にはふさわしい心理学だなのだろう。

『傭兵』のほうが1年ほど前に書かれたもののようであるが、こちらのほうが動的であって現代にも通じる躍動感というものを感じた。一言でいうと、経済活動が活発化するほど、社会のあちこちで不具合が生ずるという印象だ。この伝でいくと、景気浮揚をひたすら図る現代社会政策はいよいよ大きな間違いではなかろうかと思った。『傭兵なんて今はほとんど存在しない』なんて思ったら大間違いで、生活のための身売りという点ではサラリーマンなどまさに傭兵といえる。通勤、勤務の過程で死亡するというのは、まさに戦死に相当する。

最初の方に、傭兵は売春に次いで古い職業だとあった。歴史の曙のころは売春は宗教と分かちがたく結びついており、それは通常の結婚を禁じられていた巫女が不特定多数の相手と性交渉を持つことから始まったという。これを「神聖娼婦」と呼んでいるそうだが、そうしたならわしは今日でも名残をとどめていて、売春宿のことを女子修道院と言い表すのはこれが淵源らしい。

売春と組になるくらいだから、傭兵というものもやはり健全な社会が傾き始めて出てきたものらしく、イメージはあまりいいものがないようだ。そもそも、特定の社会組織を守る軍隊に入隊できるものは、そこに住む世紀の市民でなければならないというのが当たり前であった。それは義務というよりもむしろ権利であり、名誉なことでもあった。権利であるから、もちろん軍備一式は自前である。国家の規模が比較的小さく、理想的な愛国的無償市民軍団というものは、しかしながらそう長続きはしない。少しでも対外戦に勝利すると、たちまち帝国主義的対外膨張に乗り出し、多くの植民地を獲得してゆく。そうすると、必然的に市民軍団の数は少なくなり、農民の割合が減少するため、国家は没落する。植民地から獲得した富だけが史上にあふれかえる。そうすると、どうしても異国の地から金銭で傭兵を雇い入れるという方向へ流れざるを得なくなり、軍隊の質は低下し、国家は衰退することになる。例外はローマ国家だけであったといってもよかったのではなかろうか。ローマが植民地獲得ごとに一定の条件を満たす住民にローマ市民権を与えたのは、何も軍隊組織を堕落させないという巧妙な計画が功を奏したのではなく、もともとローマ人が例外的に差別意識のない国民だったからなのだろう。歴史上何百という都市国家が結局は弱体化して滅んでいったのも、中央部への富の集中から傭兵を雇い入れることになったのが原因だ。ローマだけが市民団からなる強力な軍隊を維持することができた。国防にかける予算は周辺国の10分の1もあれば十分だったのである。もっと少なくても済んだかもしれない。しかしそのローマも富の蓄積が進むにつれ、貧富の差が激しくなると、次第に正規市民塀の獲得に苦しむようになる。市民には戦役に参加できるだけの十分な資産を有する者がいなくなってきたので、仕方なく軍役に参加するものに相応の給料を支払う羽目になってきた。これが職業軍人の誕生であるが、食うためにしかたなく戦うというものが増えてくれば、どうしても兵士の質は落ちる。次第にローマ兵の力も、かつてのように無敵を誇るという訳にはいかなくなってきた。それが紀元前1世紀のあたりらしい。そうしてついにはローマでさえも貨幣経済に倒されたといっても過言ではないといえる日がやってくる。すなわち貧富の差が進み、全く戦士の成り手がいなくなると同時に、傭兵を雇わざるを得なくなる。市民が貧しく兵装も整えられなくなるにつれて、ついには傭兵の方が力が上回るようになる。傭兵を雇うようになると、国家の滅亡も間もなく、という次第だ。

中世ヨーロッパにおける封建騎士階級の没落も、貨幣経済の発展と関連付けて説明することができるそうである。これは私には目新しい視点で、まさに歴史は解釈の問題であり、相対的な個々人の観点により過去の事実もいかようにも変遷するといった、一見摩訶不思議な現実の世界を象徴しているものだとしか思われないものである。すなわち、過去など存在してはいないのであるから、その世界を現実の世界に再生する場合には常にその場その場の現実のフィルターを通らねばならない。フィルターが複数ある以上、出てきたものも当然複数あるはずである。所が過去の歴史は一回しかなかったのだから未来において再生される過去の事実も一つであらねばならないはずであるというのが人間的論理である。ここにおいて奇妙な自己撞着が起きる。摩訶不思議のようにしか思えないだろうが、記憶の中にしか過去は存在しないのだから当たり前のようでもある。書物や映像に残された過去の記録を再現する場合も同じである。まあ、かなり奇妙だろうなとは思う。この辺のことをいくら述べてみても、わからない人には全くわからないということは、いやというほどと自慢するほどに多くはないものの、かなり経験していることなので、これ以上あまりごちゃごちゃいうつもりもない。ただ人間は、宇宙の膨張する方向を未来であると勝手に誤解しているだけであるとはいえるものだ。すなわち、空間の広がりと時間とを同一視しているのだ。例えば望遠レンズを通して物を見ると、物体は拡大されたように見えるが、奥行きは縮小している。しかし、「この望遠レンズは物が縮んで見える」と文句を言う人はいない。

という次第で、傭兵は金回りの激しくなった世の中に好んで登場した「金の亡者」達であった。イタリア・ルネサンス期の歴史に残る外国人傭兵隊長には特に悪辣非道なものが目立った。11世紀以降の金鉱ラッシュによりますます経済活動が盛んになるにつれ、貧富の差が広がり、食うに困り先祖の地を追い払われるものが増えるにつれていやおうなしに富を求めてさまようものも増加していく。ドイツ人のヴェルナー・フォン・ウルスリンゲンは甲冑に、「神の敵、哀れみと慈悲の仇」と刻み込んで略奪をほしいままにしたという。フィレンツェに雇われたイギリス騎士ジョン・ホークウッド(1320−94)は、莫大な財を残し、死後フィレンツェから国葬級の扱いを受けたが、生前2人の修道士から「神があなたに平和を送らんことを!」といわれると、「お前たちがくたばらんことを!」と返した。「世が平和であったならわが命はないのだ、ボケ!」という訳である。しかし不思議と彼の騎馬像は教会の前に飾られることになったそうである。産業革命後の現代では、彼ら傭兵たちの考え方のほうがむしろ当たり前であって、神の楽園の到来を願うものなどはお花畑論議に暇を弄ぶ現実逃避の輩とさえみなされている。

しかし、すでにホークウッドの誕生以前から市民団復活の兆しはあったらしい。市民重装歩兵の壁が、フランス騎士団の突入を完ぺきに防いで、逆に敵騎兵の累々たる屍から金メッキの拍車を奪った。だからこの戦いは「(金)拍車の戦い」と呼ばれる。1302年の7月11日の夕暮れに行われたこの戦いには、防衛側のコルトレイク(現ベルギー)側の伯爵騎士も馬上から降りて密集歩兵軍に加わった。ウィキによれば7月11日はベルギーの祝日とされているそうだ。よほど名誉なのだろう。けれども敵側が確実に自軍に突進してくるということがわかっていれば、密度の濃い固定された防衛基地のほうが効果的だったという程度のものだったのかもしれない。弓矢というものの使用を嫌ったヨーロッパならではの戦術かもしれない。モンゴル弓騎兵の手痛い進撃に敗れてからそれ程年月もたっていないというのに、社会通念というのは改まらないものだ。東方の世界のような優れた製鉄技術を身につけようという動きも特になかったらし。ギリシャ・ローマ以来の伝統戦術である盾のコンテナによるブロックで弓矢の攻撃を完璧に防げたのは、ただ製鉄技術が未熟なためだったといってよいくらいなのだが、そんなことには彼らは全く頓着しなかった。鏃を強化するだけで重装歩兵の持つべき盾の重量は次第に重みを増し、とても手で持ち運べるようなものではなくなるのだ。また、スイスはヨーロッパの中でもとりわけ貧しかったのだろう。いち早く歩兵の価値に築くとひねもす農民たちに槍の修練を課していたらしい。それで1315年のモルガルテンの戦いでハプスブルクの騎兵たちを散々に刺し貫くと、傭兵稼業への自信を深める。もちろん槍だけでなく、ウィリアムテルのような様な弓使いもいた。テルがクロスボウで息子の頭に載せたリンゴを射抜いたのは1307年の11月とされているから、この戦いの8年ほど前のことである。


ヨーロッパ大陸の伝統を破ったのは、百年戦争におけるイギリス長弓兵たちでもあった。1346年のクレシーの戦いでは、重力を巧妙に利用した弓矢は、フランス騎兵の甲冑を容易に貫いた。1346年といえば、ホークウッド26歳の時だが、彼がそののち半世紀近い長い期間悪名高い騎士として活躍することができたのは、中世社会における時の流れの緩慢さを物語るものだ。


さて、スイス農民歩兵の槍衾方陣の強さを全ヨーロッパに知らしめた戦闘が、1386年のゼンバッハの戦いであった。この時は力と力の全面衝突の形であったが、それでも歩兵が騎兵を蹴散らした。70年もの歳月が流れているのは、多分人員補充のためだろうが、それでもなぜ歩兵が常勝するようになったのだろうかと理由を考えてみた。単に人数の多さが原因かというと、どうも心理的なものもあるのではなかろうかと思う。ギリシャ・ローマの時代にはまだ歩兵にそれなりの人権があったので各人ごとの恐れというものが強く、向かってくる騎兵を見れば当然逃げ腰になってしまったからではないか。それが次第に農民歩兵なるものが国王の私物化となるにつれ恐れが消えたのではなかろうか。とにかく騎兵の動きを止めてしまえば、もう騎上にいては力を出すことができない。軽い剣を振り回すのが関の山で、しかも両手を使おうとすればたちまち落馬する。槍をもって踏みとどまっていれば自然に勝てる。それには恐れを知らないことが必要だ。農民兵士たちの自由意思を奪ってしまえばよい。そうするとまさに殺戮軍団であって、だれか後世に「狼に率いられた羊の群れは、その逆の場合よりもはるかに恐ろしい」などといったものだが、まさにそのようになる。騎士の誇りとか寛容などといった美学の世界は全くなく、ただ殺して殺しまわる。捕虜なども生かしておくと食料を与えるのが面倒なのか、ただやたらと殺戮する。それでおもにフランスがスイス傭兵を雇ったのだが、シャルル8世などは気色悪くなって敗北したわけでもないのにイタリア遠征から撤退したらしい。スイスは山岳地帯で碌な耕作もできず、観光業で収入を得る以前は放牧ぐらいしかやることがなかった。そういう仕事なら女でもできるから、男は傭兵にしてかまわなかったし、その方が実入りもよかったわけだが、いったん外で殺戮の味を覚えると、国に帰ってきても、面倒なことがあれば何事も暴力で解決しようとするから、スイス当局からも邪魔者扱いされたそうである。

そのスイス人傭兵が大活躍したのが、15世紀後半に行われたブルゴーニュの戦いだ。フランス国王ルイ11世に雇われたスイス歩兵と、ブルゴーニュのシャルル大胆公の騎士団との間に行われた戦闘である。エリクールの戦い、グランソンの戦い、ムルテンの戦いといろいろ記録が残っているらしいが、いずれもスイス傭兵が勝利した。ブルゴーニュ軍も次第に歩兵の割合を増やしていったものの、どうしても騎士の矜持が邪魔をして連戦連敗だったという。1474年のナンシーの戦いでブルゴーニュ騎兵は壊滅し、シャルル大胆公の死により、ブルゴーニュ公国は滅亡した。ここで高校のころどうにもわからなかったことが、フランス国王の威厳というやつであったことを思い出す。日本であれば、「反乱」という言葉を真っ先に使用するはずなのに、なぜ反乱でないのかがどうにもわからなかった。ずっと後になって、日本は例外的で豪族というものが素直に主君に従う社会であるらしいということを知った。戦国時代のように一時的に群雄割拠しても、すぐにまとまる。唯一の例外だといってよいくらいのものだろう。だから日本史と世界史は似たように見えて全く異なっている部分が多い。


さて、前述のようにイタリアから撤退したシャルル8世ではあったが、次のフランス国王ルイ18世は再びスイス傭兵を買い取りイタリアミラノに進行する。ところがイタリア側の主力部隊もやはりスイス傭兵であった。そこでミラノ側のスイス人傭兵は相談してフランス側につくことにした。ところがこの事件の影響かスイスの評判はがた落ちとなる。フランス側も傭兵たちに給料の支払いを拒否する。どうも従来のんびりしていた中性にしては情報の伝わり方がやけに早くなったような感じだ。この戦いのあった1500年の数十年前にドイツで発明されたグーテンベルグの活版印刷が関係しているのだろうか。大体オーストリアハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝である。もともとはスイスを根城としていたのが、1273年にドイツ王に選任されてオーストラリアに引っ越してきた。だからスイスはハプスブルグ家に忠実であるべきであるのに、ずいぶん怪しからんという訳で、当然スイスに恨みを持っていた。だから、という訳でもないが、スイス傭兵の悪い風聞をこれ見よがしにあちこちに言いふらした張本人はドイツであったということも考えられなくもない。ついでに後日オーストリア生まれのヒトラーがこの当時のスイスの振舞を知って、スイス進撃の内面の口実にしたということも十分に考えられる。

スイス傭兵部隊の無配神話が消え去った後、代わりに登場したのがドイツ傭兵部隊、ランツクネヒトだ。スイスの没個性的な傭兵達と比べて、かなりの自由軍で服装も派手だったという。スペインのカール1世の主力だったランツクネヒトが1524年の北イタリア、パヴィアの戦いでフランス・ブルボン家に雇われたスイス歩兵軍を9時間半(ウィキには4時間半とある)にわたる激戦の末に破っている。この戦いではランツクネヒト側は1500の火縄銃を使用している。そろそろルネサンスの始まるころで、時の流れというものが大分早くなってきた感がある。

さて時代は1517年の95か条の意見書に始まるルターの宗教改革へと流れる。農民への課税がやたらと激しくなったことと関連があるらしい。ルターは農民の鎮圧は領主の神権であるとした一面も持っていたという。このころから税金がバカ高くなったという指摘は面白い。

ランツクネヒト部隊の暴虐非道ぶりは、南米においていかんなく発揮され、コルテスやピサロをはるかにしのいだ。「思うにドイツ人たちはこれまでに述べた無法者とも比較できないほど残酷に、また残忍極まりない虎や猛り狂った狼や獅子を凌ぐほどの無道振りと凶暴振りとを発揮して、その地方を侵略した」と、ラス・カサス(1484−1566)は述べているそうだ。

大航海時代やオランダの反映、スペインの没落ののち、いわゆる「30年戦争」によって王権が確立され、絶対主義の時代へと移ってゆく。30年間で13回の戦いが行われたそうである。それぞれの戦いはあまり相互に関連はない。1648年のウェストファリア条約後、半世紀ほどたって『30年戦争』という総称が生まれた。大きく4期に分けられる。@ボヘミア・プファルツ戦争(1618−23)、Aデンマーク戦争(1625−29)、Bスウェーデン戦争(1630−35)、Cフランス戦争(1635−48)だそうである。ボヘミアで起こった新教徒反乱の鎮圧をびぐビジネスチャンスと見たカトリック諸勢力の雇った傭兵軍によって、ドイツの都市農村は略奪の限りを尽くされる。「彼らは通りすがりに、あたかも宣戦布告した戦争におけるかのように、出くわしたものを皆殺しにし、村々を焼き払い、娘と主婦を犯し、教会を荒らし、祭壇を打ち砕き、金目と思われるものは一切合財持ち去り、前代未聞の大悪行の数々を行った」と当時の資料にあるそうである。従来と異なり、統制のとれた2万ほどの部隊が周到に計画された軍事作戦として略奪を行うのだ。そうしてその軍勢の総数は次第にその数を増していった。大体一日1000人が虐殺されたとしても、一年で36万5千人だ。人口3000万人の現在の国の自然死亡数がこれくらいだろう。当時そんなに人口の多い国というのは多分なかったろうが、国土が30年間で荒廃したというくらいだから、多分もっと虐殺されたのではないかと思う。村の総人口が100人くらいだったとすると、毎日村が何十個となくなっていった計算だ。

表向きはカトリック対プロテスタントの宗教戦争ということになっているが、そんなことはどうでもよかったようである。あるいは領主が租税の徴収率を上げるための目的で危険を仕組んだのかもしれない。これくらい危険を仕込んでおけば、3割か4割の年貢を税として納めたとしても、一揆を起こすものは少ないだろうという打算である。それでもだいたいカトリックとプロテスタントだ。ドイツは大対プロテスタントだったが、バイエルンは概してカトリックであったからスペインに救援を頼んだ。ところが第2期のデンマーク戦争になると、カトリック色の強いフランスがイギリスやオランダと組んだそうであるからよくわからない。第3期はスウェーデンからグスタフ・アドルフが出てきて、プロテスタントが勢力を挽回する。彼は1631年フランスと「ベールヴァルデ条約」を結び、北ドイツのプロテスタント諸侯を救うために必要な資金はカトリックのフランスが拠出することとした。グスタフ王の尽力でプロテスタント側の勝利が確定したかのように見えたが、肝心のグスタフ王が戦死してしまう。このことで戦争がいたずらに長引くこととなったが、結局ドイツハプスブルクは敗退し、ドイツだけは分裂したまま、勝った側の反はプスブルグ諸国には絶対王政による権力統一が進んだ。その中でも最大の富を誇ったのはフランスだった。人口だけで1800万を有したという。ハプスブルグ領有地でさえ800万足らずしかいなかった。イギリスは700万、スペインは600万という。

ルイ14世のころになっても、スイスは相変わらずフランスに傭兵を送っていたが、その時のスイスの人口はわずか90万人とされる。そうしてスイス人近衛兵はフランスブルボン町に対し、絶対の忠誠心を抱いていた。フランス大革命の際、スイス近衛兵たちは最後の一兵まで、ルイ16世を守ったという。これだけ傭兵の活躍というものの役割が大きかったということには思い至らなかった。

プロシア(ブランデンブルク選帝侯国の後継国家)のフリードリヒ2世(1712−86、フリードリヒ大王)になると、もうそのころには各国とも常備軍は概ね自国の兵士で確保していたが、彼の場合には国家に対する忠誠心は将校連中にだけ強力に与えた。そして兵装には自国民の場合であっても、どこかで拉致してきた一般の農民などを当てたという。武器は銃だからもう誰にでも扱える時代なので、特に教育というようなものは必要なかったらしい。訓練は強制的なものであったが、それで無類の強さを誇ったというから、かなり驚きだ。人間並みの扱い方をしないで洗脳してしまったほうが一途に強力になるらしい。オリンピックなどでも、かつて共産圏の選手ばかり大活躍したのと似たようなところがあるのだろう。フリードリヒ大王は偉大な人物が往々にしてそうであったように非常に距離のある2面性を有していた。とてつもなく冷酷であって慈しみ深く、大胆で繊細であり、温厚であって激情家であった。教育熱心であり、これは彼の忌み嫌っていた父親が1704年に開設した「幼年学校」の延長であった。この学校で育った他の追随を許さぬ軍事知識を持つ将校たちにのみ、彼はきわめて慈悲深くあった。そうして彼らに自分の意のままに行動する従順さを与えると、革の鞭で農民出身の無知な兵卒たちを順わせるよう命じた。また将校たち専用の軽騎兵中隊の育成に心血を注ぎ、何よりも機動力を重視した。歩兵群が隊列を整える前に突入してしまえば、速やかに勝利を得ることができる。そのため、大王麾下の騎士は通常の3倍の速さで敵軍に突撃することができ、平均すれば2倍の数の敵を打ち破ることが可能であったという。

そのフリードリヒ2世が、「汚らしいエゴ」と吐き捨てたのが、アメリカ独立戦争のさなかに統治にドイツ民傭兵を売り渡した行為であった。ヘルマンカッセル方伯フリードリヒ2世などは自領の畑作農民40万のうち、1.7万人を輸出した。名前が同じフリードリヒ2世なので紛らわしい。ちなみに同時代の劇作家シラーの名もフリードリヒだ。そのシラーの戯曲『たくみと恋』に、宝石と引き換えに7千人の領民がアメリカへ送られたということが書かれているそうだ。アメリカ独立戦争で多くの英国人が犠牲になったということは知っていたが、その戦争で戦った中に海外から輸入された傭兵が含まれていたことは知らなかった。ドイツ領内の傭兵だけでも、8年間続いたアメリカ独立戦争の間に、3万人ものドイツ人が輸出され、当地のイギリス側の兵士として戦っていたという。ドイツ傭兵哀史としてよく知られている話らしい。まさか、アメリカとイギリスそれぞれと取引していたということはないと思うが、現実は相反する取引が同時に行われるというのが常であるから、何とも言えない。しかし、アメリカ独立を自由を求めての戦いと見れば、欧州からの義勇兵が多く駆けつけてアメリカ側に左袒したということは大いにありそうなことである。

こうしてみてくると、案外ヨーロッパの白人には人種差別の意識などなく、彼らにとってはごく日常的な庶民連中に対する通念をもって、アジア人やアフリカ人と接していたのではないかということがわかる。どうやら平等に接していたのに、被支配階級がいわゆる逆恨みのような被害妄想意識を重ねた結果、妙な噂が成立し、噂のほうが拡大してやがて現実のものとなっていったのではなかろうかという気がする。


こうした従来の価値観を大きく変えたのは、1792年9月のことであった。日時までくっきりと特定されて事件は起きる。プロイセン軍とオーストリア連合軍に囲まれて絶体絶命であったはずのフランス革命軍が突如として息を吹き返したのだった。まあ、ちょっとよくわからないが、いわゆる「奇跡」というやつだろうか。マスメディアの勝利とでもいうのだろうか。「フランス国民万歳!」という声によって、フラン全国民が立ち上がったということになっている。チラシでもどこからか配ったのだろうか。この時の声がこだまして自由思想・ユートピア思想が台頭し、社会主義や共産主義の自由思想が駆け巡ることになったと考えられる。しかし、絶対主義権力筋にとっては都合のよかっただろうことに、スターリンのつまずきのため、再び民衆の弾圧というのが始まった。そろそろだれか立ち上がってもよさそうにも思うが、今は昔と違って、義務教育制度のために国民がすっかり骨抜きにされてしまっている。

本書は、ナショナリズム成立の仕組みを、傭兵の歴史を見ることによって解き明かそうというものだという。そうして19世紀にはその仕組みはおおむね完了した。そして、国民の自由が頂点に達したと思える時に、そのナショナリズムは瓦解したように思える。今では外人部隊と名を変えて、再び傭兵が自由を求めてさまよい始めている。かつてのように日々の糧を求める貧しい傭兵達ではなく、権力の座に胡坐をかく狡猾な現体制の打倒をはかる強い信念を持った裕福な者達である。よいのか悪いのかはわからないが、仮に彼らの思いが成就すれば、1%の裕福なものは沈み、10%か20%のものは今とあまり変わらず、80%ほどの者は浮上する社会となるだろう。


傭兵の二千年史 [ 菊池良生 ]
楽天ブックス
講談社現代新書 菊池良生 講談社【秋のスーパー読書2014】 発行年月:2002年01月 ページ数:


楽天市場 by 傭兵の二千年史 [ 菊池良生 ] の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



昔少年少女文学全集かなんかでドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ。多分抄訳だと思うから、今度機会があったら全訳を読んでみたい。グリム童話のように都合の悪いことは曲解するようにうまくかわされていたものと思う。最近は情報に関してはだいぶ世の中が素直になってきた。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「傭兵の2千年史」を読む。 森の散歩/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる