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<<   作成日時 : 2014/10/11 10:09   >>

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ふと、大森荘厳の「時は流れず」という書物のことを思い出した。殆ど題名だけしか覚えていないものだが、世の中には過去とか未来なんぞというものはなく、現在しかないという思想で、もちろん客観的事物が理念を離れて存在するなどという考え方からは180度離れている。それにもかかわらず、今しかないという思想は妙にアインシュタイン流だ。もちろんアインシュタインは「月は人が見ていなくても存在する」と信じて疑わなかった派で、主観よりも客観の世界の存在を強く主張したのであるが、彼のこうした思想は主観的なものであった。要するに、主観の世界を客観の世界よりも第一義に置いたのがアインシュタインであったといえる。ただ自分の信念通りに世の中ができていないようなのを知って、ひどく腹を立てた科学者であって、この辺が人間的であった。

これに対して、量子力学の創始者などといわれる人々は、客観的世界の事例を主観よりも事大なものとして扱っているといえるのだ。心の世界を全く除外視して扱っているという点で、人間的ではない。物理学とはもともとそうしたものといってしまえばそれまでだが、何とも味気ない。

といっても、過去の出来事というのは解釈を与えて初めて意味を成すものだ。その解釈というものは時を経るにつれて変遷する。あるいは同時代の出来事であっても、同時刻に起こった同一の出来事は見る人の相対的位置により様々に異なる。そうすると当然それぞれの人が同じ事件を記述してもお互いに齟齬が生じてくる。だから今起こっていることであっても、一意にはこのことを決定づけることはできない。時間がたてばさらにこの分岐はその多さを増す。


数学者の岡潔がどこかで引用していたが、正法眼蔵の現成公案の下りに「万法すすみて自己を修証」することが悟りだというのがあった。「自己をすすみて万法を修証する」のは迷いだ。知恵には分別知と無分別知というものがあるが、分別知というのは自分の側から積極的に物事を学ぼうと努力すればだれでもできることだ。しかし、悟りのほうはそうではない。神羅万象の方から自然とこちらの方に入ってきて勝手に学びを習得させるという程度のものだ。それが無分別知で人間生きるにあたって、せいぜい大切なものでもあるのだろう。ということは誰にでも悟りは訪れるということでもある。追い求めていては来ないということは、子供が言葉を学ぶというのは一種の悟りではないか。あるいは蜘蛛が円網を築くのも万法の方から勝手に天然自然の理法を授けているのかもしれない。ともかく生命の証というものは、無心でいるときにしか訪れない性質のもののようだ。葉隠流の哲理なんていうのも、日本古来の伝統を集めたもので、何もアメリカナイズされた現代人が小ばかにするほどの非論理的な根性論を説いたものでもないだろう。前々から言っていることだが、共産主義なんていうのも世間が騒いでいるほど地獄の社会でもなく、現体制が崩れたら困るというのは、例えば年収1000万以上か、資産が3億円以上もある家庭に限られるようなものに過ぎないだろう。7割くらいの者にとってはむしろ共産主義社会のほうがましなのだと思う。まあ、そういう者どもの中には私の大嫌いなタイプの奴が多数徘徊しているのも事実である。しかし私はどうも金目の物にはあまり興味がないようであるから、世界が共産主義になったほうがむしろよいだろうと思っている。

たとえて言えば、異性体構造の化学物質を重ね合わせるにはどうするかというような問題を考えてみる。どうしても重ね合わせることができないように思えるが、ここでメビウスの帯というものを考えてみる。一枚の紙の裏表を旅するにはどうするか。平面という2次元に固執していてはだめだから3次元へいったん出て表裏をねじったうえでまた2次元に戻る。そうすると件のものは難なく可能になる。同様に3次元空間でできなかったものは4次元へ出て一回ねじってから3次元に戻せば重ね合わせることができるだろう。それと全く同じことが時間の概念についても言えるのだ。われわれが今現在運動しているこの3次元空間をそっくりそのまま4次元に展開して再び3次元へ戻したものが未来であり、あるいは過去であるのだ。その展開する様子が我々には想像できないから、われわれはそれを時間の経過と呼んでいる。しかし実際は空間から空間への飛翔なのだ。すなわち、宇宙空間の膨張する方向が我々には未来に見え、収縮する方向は過去の物事だと思えるのだ。時間とは単に空間の4つ目の軸に過ぎない。それが空間とは全く異質のものに思えるのはわれわれの大いなる錯覚である。有史以来、大概の神話で時間と空間は兄弟であるとされてきたものの、よくよく考えてみれば、時間の存在性などなくても一向に差支えない。すべては動作さえあれば足りることだ。

時々、「何万年も前のものが残っているのだから、時というものはあるのだ」なんて思っている人もいると思うが、何万年も前のものは決して昔のままじっと今を待っていたわけではなく、世の中と一緒に歴史の中を動いてきたのだ。化石にしたって大昔そのままの姿ではなく、生物の進化とともに生きてきたものである。化石というのは運よく生き残った者だけが発掘されるもので、多くは数百年というレベルで朽ち果ててしまうものだ。昨日届いた書物にしろ、日々老化して黄ばんで行くのは人と同じだ。そうやって万物は生々流転してひと時も運動というものをやめない。絶対零度に凍結されたものでさえ、刻々と動いている。

神話における時間というのを調べようとウィキペディアを見たところ、「時間というものは未来から過去に向かって流れるのだ」というものがあった。認知科学者の苫米地英人(とまべちひでと、1959年生まれ)という人が次のように主張している。
・・・現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になるのです。当たり前のことですよね。現在の行為が過去になるのです。つまり現在の結果が過去です。あなたのいる位置が現在とすると、あなたに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているわけです。・・・
人が止まっていて、時の流れに逆らって生きていくという感覚だろうか。しかしながら、現実は人が静止しているわけではない。相対的にどう見えるかという問題だ。どちらかを静止させた視点で見れば、どちらかが動いているのだし、時間に対する定義も変わる。人の心の内側にあり人とともに動いている時間と、外界にあって常に流れている時間とである。

世間一般にしみついている、「時間は過去から未来へと流れる」ものであるという考え方は、創造主の存在を念頭に置いたものだ。ユダヤ的な思想では、だからビッグバンなどといったものを必要とする。そうした直観にわれわれはとらわれすぎているのだという。そういわれてみると、未来から過去に向かって物事が収束してゆくさまは非常に合理的なように思える。こうした思想は仏教のアビダルマなどにもみられるという。現代社会においてそういう考え方がはやらないというのは、今の社会がすっかりユダヤ化されてしまっているからなのだろう。


物理学者は「過去から未来への一方通行」である不可逆的変化の不思議さについて「時間の矢」という概念を用いた。まあ、物理学でも時間は過去から未来へと流れるということになっているようだ。それは多分、物理学というものの大枠を築いたニュートンが神学者であったことにもよるのだろう。ついでに世間でいうほど彼らは時間というものを重要視していないとは言える。物理の法則の多くのものは時間の向きがどうであろうと成立するものばかりだからだ。



それから、おそらく古来の賢人も思い誤っていたと思える概念に「瞬間」などというものが存在しているに違いないというのがある。そんなものは現実にはありはしないのだ。それなのに誰もかれもが時間間隔を無限小にしたものが実在するなどと思い込んでいる。ゼノンのパラドックスなど、大森荘蔵も言っていたと思うが、時の流れなどというものは人間の頭の中にしかないもので、自然界にはそんなものは存在しないのだということですんなり解消する類のものだ。つまり、ゼノンはギリシャ思想家たちの概念はただの妄念であることを明らかにしたかっただけなのだ。


上にいくつか時間についての観念を上げたけれども、大事だと思うことは、すべて正しいということだ。すべて正しいということは現実の世界では一般にありえないことである。そういうことは思念の中でしか起こりえないことなのだ。世界の存在はすべて我々の脳裏にしかないのだ。ただし上に断わったように『一般に』である。特殊的な場合として、例えば光のような場合がある。古くから光の二面性は知られていて、バローやニュートンは、光は神の意志を人に伝える伝令師のようなものであるからある時は波でありある時は粒子であるのは当然だとみなしていたようであるが、ホイヘンスなどは波動にこだわっていたらしい。それで結局ニュートンの神学的理念の通りだったわけだが、果たして光が衝突の打撃で異次元で反転し、再び3次元世界に足跡をしるすときに見かけの姿を変えるのか、それとも単に人間世界側の観測が打撃によって反応の仕方を変えるのかはいまだ不明であるといってもよいのだろう。それからトンネル効果のようなことが起きるのも知られているが、これも次元の反転が絡んでいるかもしれない。そういう例外があるから、もしかしたら思考の内部ではなく、実際に外界に幽霊現象のようなものが潜んでいるとも考えられる。しかし、時間に関しては、けだし外側の現象とは思えない。


このように考えていくと、アインシュタインなどのように強烈に外界の存在を主張するような人でも、本人の信念とは裏腹に、意外と大森荘蔵のような考え方に近づくのではないかと思うのである。アインシュタインは性格的にそういった思索は不毛のものであるとして考えなかっただけなのだろう。情報は瞬時に伝わることはないとする立場の者は概ねそういうことになるのではないか。例えば光円錐といったものがある。地平の外側にあるものはすべて過去あるいは未来のものである。であるから、何物も時を同じくすることはできないのだ。人の場合であっても、自分の直接経験することのできる事象以外は、すべて人や事物の経験したところの過去でしかない。それは手元に置いた書物の中の知識と同じものだ。ところがそうやって伝聞する過去は未来からやってくるのだ。もともと物理学というものは人間の精神主体には触れないという前提で生まれたものであるから、そんな哲学の話などどうでもいいのである。化学なども同様であるが、生物学になるとどうだかわからなくなってくるかもしれない。医学は当然時間の問題を繰り込むべきであるが、現状はどうもパーなのが多いようだ。政治学なども同様だ。政治家はこういうことに無頓着だからダメなのだと思う。

上に述べたように、現代社会では多くの過去の情報は未来からやってくる伝聞に由来するものなのだが、人はそれを自分自身の体験した過去と同一視する。これは教育による洗脳なのかもしれない。しかし、どうもそれは違っているのではないか。人間の数だけ世界があって、それが奇妙な重なり合いを保っているだけのようにも思える。ニュートン以降に始まる近代哲学の流れもこうしたもののようである。イギリス経験論もドイツ観念論も、もとは似たようなところから出発しているのだ。このことはちょっと意外な気がする。ニュートンの国だから、きっと客観的世界の存在を無条件に肯定しているかと思うと、実際はその反対だ。両者とも、出発点は自分自身の心の動きである。どちらかというと、イギリスのほうが外界の存在を疑っているというのが面白い。考えてみれば、我々が知っているニュートンはニュートン力学を通じてのものであるが、そのニュートン力学の大部分はフランス産なのである。だから大陸哲学のほうがむしろニュートン的であっても不思議ではない。

世界が一つしかないなどという決めつけは、いつ誰によってもたらされたのであろうか。きわめてバカげた妄想に思える。


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