年賀状に貼り付ける写真について
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作成日時 : 2014/11/29 14:08
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子供の写真付きの年賀状を送られて非常に不快に思っているという人が意外に多いというのを聞いた。多くの者は別段なんとも思わないだろうが、おそらく一割か、ひょっとすると2割以上のものが不快に思っているかもしれない。生涯独身だというもののほとんどが子供嫌いだということはありそうなことであるし、そういったもの達の数でも全体の一割を超している。また結婚したとしても、子供嫌いで、あらかじめ子供は作らないことを夫婦で決めているものもいる。大学時代にそういった教授が一人いた。子供が駆けずり回る姿や甲高い声を聞くたびに、背筋がぞっとするのだという。
そういった性質の者たちが一割を超すほど多いというのに、無差別で送付する年賀状にわざわざ他人を不快にさせるであろう写真を添付するというのは知性の欠如、特に洞察力の貧弱なことを示すものである。これは例えば古いタイプの人間が「自分たちの時代は当たり前だった」といって、暴力的指導を全員一律に押し付けるのと似ている。それは古いタイプの人間などというような婉曲的表現を使うよりも、むしろ「頭の鈍い者たちは」といったほうがより適切だ。そういったことをするものに頭の切れるものはいないからである。何年か前に、同窓会に自分の子供を連れてきて平然としている父親がいたが、やはり昔からかなり頭の回らないものであった。非常識というよりも、子供自身が終始つまらなそうにしていて、『バカな親だな』と思っていたものである。
反対に、不快に思うものがごく少数で、全体の1%を超えないようなものであった場合、無差別に対象を選んだ場合であっても、例外的な人物に対する配慮といったものは不要となるのが、現代日本社会の慣習であるように思う。聾唖者に対する配慮は通常の場においては必要なく、全員が健全者であるとして扱うのが当然であろうが、それは彼らのような異分子がごく少ないからだ。階段の上り下りのできないものはもっと多いだろうが、結婚式のパーティの通知状にわざわざその旨を書き添える必要はない。
どのあたりが閾値なのかというと、それは時代によって異なってくるようだ。昭和の終わりごろだと、大体5%が無視できるかできないかの分かれ目であっただろう。平成に入ってからは徐々に少数派を受け入れるようになってきたが、まだ1%程度のものだろう。社会的に同性愛者を許容するか否かがこのレベルだと思う。日本においては少数派に対する寛容度はずいぶんと低く、いまだにベジタリアン専用のレストランというのを見かけない気配にもそれは表れている。もっとも私が菜食主義について調べたのはもう5年ほども以前のことだから、今では若干世の中の多様性というものも増えたかもしれない。
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