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zoom RSS 「さらば空中戦艦富嶽」文庫版を読んで。

<<   作成日時 : 2015/06/20 08:09   >>

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2回続けて同じ作者の戦時物を読んだ。筆者の碇義朗氏は技術系らしくなかなか面白い。前身は昭和54年10月の単行本だ。西暦に直すと1979年になる。振り返ってみれば航空機動部隊が大艦巨砲に勝ることを見抜けなかった海軍司令部は能無しだなどと盛んに吹聴するものが後を絶たないが、航空機、特に雷撃部隊などを戦艦に向けることは、「お前たち誰か必ず死んで来い」というのとそう変わりのないことである。確率から言って、数名に1人は密室同然の中で孤独で死ぬわけだ。戦艦であれば息を引き取る際もだれか周りにいる。そう考えると、機動部隊優位などと説くものは少し薄情なのではないかという気もする。アメリカが機動部隊を強化したのも、戦艦同士では待ち伏せして挟撃したところで日本軍にはかなわないが機動部隊だけは互角だったという消極的な事由からだった。

現代世界に住む者にとっては『当時の技術力では到底このような長距離移動航空機は作れはしない』と思いがちである。その背景には『科学は漸進的に進歩している』という現実がある。人類が導いてきた科学の方程式は歴史の中に連綿と重なり合って消し去りえぬ痕跡を記しているからである。しかし、だからと言って「技術力は漸進的に進歩している」というのは真実ではない。しばしば『科学技術力の絶え間ない進歩発展』などと形容するのはこのためである。こういえば技術力の衰えを科学力で相殺できそうな気がするわけだ。しばしば『戦禍にある人間はこんな夢でも描かないと生きる希望がわかない』などと語るものがいるが、とんでもない知ったかぶりだと思う。現在生じていることでさえ被害者と加害者の言い分はまるで異なるというのに、解釈に頼るしかない遠い過去のことが一意に決定されると思い込んでいる人間の存在というのは全く解しがたいことである。ひとつ例を挙げれば、今の技術力で厚さ30センチも40センチもある鉄板を折り曲げることなど不可能だということがある。ところが100年前の人間にはそれができた。それだけ言えば十分だろう。科学力と技術力は全く別物だ。

例えばソ連が1932年頃から開発を始めていた長距離航空機ツポレフANT−25は1937年の後半から各種の無着陸飛行に挑戦している。6月18日にはモスクワから北極点、アラスカを経由してバンクーバーまで9650キロを63時間半で、7月13日には同じコースでアメリカ・メキシコ国境近くのサンシャシントまで10184キロを62時間で飛行しているそうだ。航続距離は実に13000キロに達していたが、上昇限度がわずか6000メートル程度で、最大速度は時速246キロしかないもので、爆撃機には不向きだった。高度さえ十分ならば、少しくらい速度に劣っていてもいい物が作れそうだ。しかし高度を上げれば途端に浮力が小さくなって降下してしまうし、速度を上げれば抵抗が増して長距離は飛べなくなる。しかし、問題はここにあるだけで、低空では1万キロ以上の飛行記録があるのだから、決して夢物語などではなかった筈である。日本では、昭和15年(1940)から計画が始められたA−26双発長距離機キ77が昭和17年(1942)7月2日に、新京ー白城子ーハルピンの三角コース16435キロを飛んでいるそうである。こちらは平均時速288キロとまずまずだったという。航続距離1万8千キロというから、すぐB29なんかよりいいものが出来そうな気がするのだが、最大の問題は与圧室にあったらしい。潜水服か宇宙服のようなものを着て我慢すればよいかというと、そんな地味なことは御免だったらしい。せいぜい2日か3日我慢すればいいのだから、宇宙服でいいじゃないかと思うのだが、こんなのが嫌で戦争は我慢できるという心情がわからない。ふと思い出したのは日本軍潜水艦に乗り込んだ同盟軍のUボート乗組員が日本の潜水艦内生活の快適さに驚いたといった話である。日本の戦闘員は快適すぎるのかもしれないし、それは戦闘員という特殊民族に特別に甘い日本人気質を物語っているものかもしれない。『彼等は人生最後の賭けをしているのだから、衣食住に関してはこちらが耐え忍ぼう』といったたぐいのものである。もっとも、ドイツUボート隊員から見ればの話である。かなり居住性はよかったらしい。彼らが特に有難がったのがトイレだそうだ。食事内容も水上艦並にみえるほどだったらしい。日本側の記録にはないが、ドイツ乗組員の疑わしい記憶によると日本海軍潜水艦では野菜を自家栽培していたそうである。多分そんなはずはないことだが、それほど広くスペースにゆとりがあるように感じられたということだろう。しかし、艦長の頭次第ではできそうなことも多く存在していたようである。

何年か前に原子炉製作所の運営しているサイトを見て驚いた。厚さわずか15センチしかない鋼鉄製の外販で原子炉を支えているという耳を疑うようなことをテレビでやっていたからだ。そうしてなおさら驚いたことは、そうした原子炉をつくっている製作所が『現代の技術ではこれだけの厚さの鉄の塊を工作することができるのです』などという出鱈目とも取れることを読者の質問として用意していたことだ。100年以上前には可能だったことができない。戦争時と比べて半分の厚さのものも加工できない。20センチ以上もある鋼鉄を折り曲げる過程では必ず何名かの作業員が犠牲になるので、今では労働法でそういうものをつくることは原則できないのだ。そうするとそれに応じて設計技術も劣化する。そのどこが自慢できるというのか。たったの15センチではメルトダウンが起きるのも頷ける。華奢な物しか作れなくなった現代技術は、何とかして時代が後世になるほど進歩していることを示そうと躍起だ。大体にして、こういった種類の都合のよい詭弁を真に受けてしまうのは、いつでも世の中の落ちこぼれ連中であると思う。落ちこぼれというのは狡猾なことを悪事だと思いたがるものである。だから、真珠湾奇襲などはどう見てもただの軍事上の優れた作戦の一つに過ぎないのに、「ああいう卑怯なことは行うべきではない」などと信じ込むわけである。世の中濡れ手に粟でなければ生き馬の目を抜く様な鮮やかな勝利は得られないものだ。もちろん狡猾さが表に現れないような方法が最も賢明であろうが。

いささか意外ではあると思うが、航空産業の黎明期にあたって、将来航空機が軍艦に代わる旗艦舞台となることを説いた海外の軍人は皆処罰されたが、当時海軍に所属していた中島知久平が同じようなことを説いた時は何の処罰も受けることはなかったということだ。なぜ航空機が戦艦より優位であることを説いたものが罰せられたかについては現在ではその訳を考えたこともないものが多いのではないかと思う。火力の強力な戦艦に航空機が向ってゆけば、必ずと言ってよいほど撃ち落されるものが何機か出る。きわめて危険な無謀なものなのだ。戦艦内にとどまっているほうがはるかに安全で、飛行機で突入するなど、はずれくじを引いたものにとっては、要するに神風特攻隊員と変わらないのだ。ただ経済的であるという理由だけで、人命を金で買う行為と同じことなのである。明治、大正時代の風紀が案外今日よりも自由なものであったらしいということについてはかなりの誤解があるようである。いったいどういう首謀者によって日本全体の雰囲気は転倒されていったのであろうか。性風俗という一点に関してだけ見れば、現在よりも50年前のほうがずっと自由であった。服装にしても、真夏の暑い日など、パンツ一枚で往来を闊歩している人もかなり多かったし、電車やバスの車内で授乳を行っている女性など日常的だったが、別段誰それが注意するという風でもなかった。福沢諭吉の書いている明治風情と比べれば、戦時中は抑えられていた反動という不自然な動きも一部には生じ、大分堅苦しさはあっただろうが、それでもところどころに自由の気風は残っていたものと思う。

筋道さえまともに通れば何でも受け入れるという所はアメリカ以上であって、いったん天下をとればだれもかも秀吉になびくというのが日本古来の伝統だ。知久平も海軍を辞するにあたって、「職退の辞」というものを書いて、英米を相手に戦艦の建造を進めれば早晩破産するので、コストパフォーマンスのよい航空機で泡を吹かせるため民間に退くことをこんこんと説いた。開戦時の空母大国ぶりを見ると、彼の思いもかなり受け入れられたようにも思う。

昭和に入ると、中島飛行機の経営は弟の喜代一に任せて、自分は政界に乗り出す。資金は株式市場から得ることにしたそうで、相場で得た資金で、昭和5年、47歳で代議士となった。それなら相場師としても名前が残っていそうなのだが、あまり知られていないように思う。

さて、富嶽の設計には、よく昭和6年にドイツユンカース旅客機を改造した4発重爆撃機を設計、完成させた安藤技師もかかわっているそうだ。空飛ぶエイのような巨大な様相から「お化け」と呼びならわされた。「お化け」は全備重量25トン、エンジン総出力3200馬力、爆弾2〜5トンを積む92式重爆撃機に改造された。富嶽は、重量が160トン、3万馬力で、20トンの爆弾を搭載し、16000キロの航続距離の予定であった。こう見てくると、いかにも実現可能なようにも思えてくる。「富嶽」以外にも、紫電改製作の川西航空機にもアメリカ本土爆撃用長距離爆撃機の構想があったという。『現在の技術では実現が難しいから』という妙な思い込み、昔に負けたくないというよこしまな邪念が「夢物語」などという神話を戦時中の技術者に与えている。

この調子で開発を続けていればおそらくそこそこいいところまで行ったかもしれないが、日本パイロットがすっかり小回りの利く軽飛行機に魅せられたのが運のつきで、おかげで鈍重な重爆撃機などてんで相手にされなくなったという話もあるようだ。中島知久平は、「どちらが先に爆撃で相手をやっつけるか、敵との競争だ。いまのままだただと、日本はもうあまり長くはないだろう。だが、ほかに何があるというのだ。これにかけてみるより仕方ないじゃないか。」と言っていたのに、「そんなものは即刻辞めて全部戦闘機にすべし」といっていたのは陸軍重鎮の方らしい。「富嶽委員会」なるものを立ち上げたのは東条首相だったが、その東条がいなくなると、陸軍はさっそく「富嶽委員会」をつぶしにかかった。それでいよいよ間に合わなくなったという話だ。1944年の8月に「富嶽委員会」は事実上消滅した。設計図面が完了し、部品図面もほとんど出そろい、クランク軸やクランクケースの鍛造素材もそろそろでき始めたころで、寝食を忘れて作業を続けてきた技術者たちにとっては大ショックだったらしい。しかし大問題としては、それまで飛行機の部品のほとんどは輸入に頼っており、最大の供給先はアメリカであったということで、そのアメリカと戦争をしてしまうというのはどう考えても大ピンチであったことだ。


それにしても、ここまでアメリカ本土爆撃計画の構想が現実味を帯びていたものだったとは思いもしなかったことであった。特に、当時の日米の国民の生活水準を思うとなおさらだ。

帝国海軍は昔深山という大きさに関してはB29に匹敵する輸送機を作成した。1941年のことで、そのころからコツコツ研究を続けていれば間にあったかもしれない。どうしても空中戦の方に関心が偏ってしまったらしい。大型爆撃機などは「大名行列」と呼ばれ、情けないものというイメージがあったようだ。


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幻のアメリカ本土大空襲 光人社NF文庫 碇義朗 潮書房光人社発行年月:2002年02月 ページ数:2


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