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zoom RSS 『激闘 ラバウル高射砲隊』

<<   作成日時 : 2015/10/10 09:42   >>

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冒頭を読み始めたとき、自伝のようなものだと思っていたのだが、高射砲の射撃というものが緻密な弾道計算に基づいた案外精密なものであるということを知ってかなり驚いた。もう10年近く前から、年に何冊か大戦の歴史物を読んでいたから、こんな基本的な知識は身につけていて当然だと思っていたのだが、さっぱり知らなかった。学生時代、もう40年近くになるが、一応担任だという老教授が元陸軍の山岳砲部隊の将校であって、その手の話を毎週聞かされていたものだが、事業などまともに聞いていた覚えなどさっぱりないので、「サイン、コサイン」程度のことしか覚えていない。しかしどうも、日本軍の高射砲も自動追尾式で敵機の高度、高速に応じた未来位置に向かって自動制御していたものであったらしい。エニアックが作られたのも射撃表の精密な計算のためであったというのを思い出すが、相変わらず何がそんなに複雑なのかがわからない。昔、「コンバット」でドイツ軍の赤道儀望遠鏡型最新式高射砲というのをやっていたが、まあ、ああしたものも昭和3年にはすでに現地調達されていたようである。戦前も機械技術に関しては意外に進んでいたようだ。

筆者の斉藤睦馬(むつま)氏は、大正7年生まれで、昭和16年3月東京帝国大学の法学部英法学科を卒業して、第一銀行に勤務していたが、昭和17年1月に徴兵され、陸軍に入隊したそうだ。帝大卒のエリートだから、特権とかあるのかと思っていたら、どうも違うらしい。貴族や家族の出自であれば、国家命令で出陣というのが当然なのだろうが、筆者は朝鮮の仁川生まれだから、まず普通の平民だ。この時代、成金はおおむね徴兵を金銭の拠出で免れていた。地獄の沙汰も金次第というのは今と同じだったか、戦争で心がすさぶと人の命よりも金がいよいよ大事になったかと言う時の話である。フランスにも、戦争を忌避しようとしたため、軍法会議にかけられ、あわや処刑されるところだったという数学者がいたそうである。連合国でもそんな有様だったというのが意外なところだ。そういえばブラックホールを計算で導いたシュバルツシルト半径も前線の天幕の中であったそうだ。

さて、斉藤氏の最初の勤務地は満州の高射部隊。二等兵から出発した。ソ連軍の防御は2重、3重で強力だったというが、日本側も相手の戦車の火炎瓶で対応したという話が載っていた。ウォッカやサイダーのビンにガソリンをつめ、ぼろ布で線をした簡単な門で、学生運動で過激派が使うやつと同じらしい。こんなものが鋼鉄製の戦車に効くのかというと、敵戦車自体のエンジンがすでに高熱で灼熱しているから、うまく戦車全体を包むように燃え広がせてやると、エンジンがやがて発火するのだという。ガソリンエンジンなどの場合は、火炎瓶など使わなくても、単に灼熱するだけで発火したとも言う。そうした原始的な方法でもある程度は実戦で通用するようだ。火炎瓶のような金のかかるやり方ではなくて、単に泥粘土をのぞき窓や大砲の入り口、排気口に擦り付ければ、そのうち自爆するのではないかという気もしなくもない。戦車など案外盲点であって、攻略法の多い危険な乗り物なのではあるまいか。

満州で身につけたのは、気力の重大さということらしい。上官から、「水や湯などのまずとも、味噌汁だけで一日は持つ」といわれ、「そんなバカなことがあるか」と思ったが、しばらくすると上官の言うとおりになったのが不思議だったそうだ。別段皮膚が厚くなったわけでもなく、丈夫になったわけでもないのに、短期間のうちに体が水分を節約する体質に変わったという。はて、人間は意志の力でラクダになれるのだろうか、などという思いだろう。寒さに対しても同じようだったという。関東軍が世界一強いのは理由もなく殴られるからだというのは、上官連中の妙な理屈だったらしい。限られたエリートにはこのやり方が通用するのか、それにしては日露戦争のころの関東軍は連戦連敗で敗北寸前だったそうではないか。ただ体力のあるのが強いというわけでもないが。

このように満州で鍛え上げられたから、内地に戻った際の訓練なぞ生ぬるくて楽なものだったという。真冬の氷点下のときでも、軍服のまま地べたで一晩寝過ごしても、少し肌寒い程度で、がたがた震えるようなことはなかったそうだ。思うに、案外こういうタイプの人はいるのではないか。テレビでも、半そで一枚で一年中過ごして平気な人というのをやっていたそうだ。意識的に俯瞰蒸泄を抑えることができるのかもしれない。真冬に半そで半ズボンというのは、人目を気にしない海外の人間には多いという。とすると思い込みによる寒気というものもありそうだ。化膿とか病気なんていうのは一種の贅沢だという。倹約に努めれば各種贅沢病にはならないのではないかと思う。体についての倹約というのは、食わないのが一番だ。どういう人が病気になっているかというと、大体贅沢をしているものが圧倒的に多い。

何年かに一度病院に行くか、テレビなどで医者の見解というものを聞くたびに、ひどく落胆するのが、彼らの見解も政府も平均値しか見ようとしていないことである。とりわけ医者の場合はこういった決め付けにはあきれるものを覚える。医者個人に責任があるというわけではなく、そういった教育を施してきた社会に責任があるといえば、結局国民に責任があるということになるのかもしれない。大多数の人間は思い込みから脱出ができないだけであって、別段彼らが悪いわけでもないというのが問題だ。思い込みから脱出できないと言うことは、思い込みで病気になるということにもつながる。
斉藤氏は、昭和18年6月5日にラバウルにたどり着いた。山本長官が撃墜されてからまもなくのころだ。もうだいぶ日本が苦しくなっていることだから、2隻の船に分かれて到着したのだが、一隻は途中で撃沈され、いったんは遭難者を救助しようとしたが、30名ほどしか洋上に残っていないのを見て、汽笛を3回鳴らした後立ち去ったそうだ。



ラバウルは開戦後はオーストラリア軍2個大体が守備についていたが、海軍からの南方拠点確保の要請により、開戦早々の昭和17年1月23日に陸軍第55師団南海支隊の敵前上陸により2週間後に制圧された。獅子文六の大判という小説を読んだことがあるが、まさか日本が勝てるわけがないと決めてかかった空売り筋の面々がすっかり破産して没落したので証券街にはたいしたものは残らなかったようなことが書かれていた。日露戦争のような安易な開戦は避けて、今度こそじっくりと思慮を重ねてことに当たった様子が伺われる。ところが結果はまったく逆だったので、今は日露戦争当時の日本軍は立派だったと信じている向きが多いらしい。単に多数派が支持していたがために勝利し、多数派に否定されていたがゆえに敗北したというだけだ。

ラバウルに着任した当時は防空隊司令部付を命じられ、これが将校生活の始まりかと感慨無用だったそうだが、満州で一平卒を演じていたころは、重労働と精神的重圧の毎日で、性質は小学生並みで、食欲は旺盛でも性的欲望などはまったくなく、たまさかに慰安所に連れて行かれるのがわずらわしくて仕方なかったが、上官は気晴らしになるだろうと勝手に押し付けてくるので大変であったようなことが書かれていて、これは予想もしていなかったことであった。帝大に入るくらいだから、もともと精神性が高かったともいえるかもわからないが、何かもっと根源的な理由があるのかもしれない。お坊さんの修行などにしても、若い者は性欲を立つのは案外簡単だが、人生経験の豊富な妻帯者などになるととたんにだめだという。ちょっと考えると違うような気がするのだが、事実は小説より奇なりの類なのだろうか。

ラバウルで筆者がびっくりしたのはアメリカ兵の勇敢さであった。対空砲火を撃ちまくっているというのに、わずかな砲火の間隙を縫って海面すれすれにまで急降下して爆撃を行おうとする。「アメリカ兵の勇気はスポーツマンシップの表れに過ぎない」などという言い草など到底信じられなかったという。日本兵などと違って、個人個人の自由精神に従って行動する兵士たちになぜこんなことが可能なのであろうか?しかも重爆撃機と違って、艦爆タイプの航空機はちょっとした破片に当たっても墜落してしまうのだ。

当時のラバウル陸軍防空隊の主力兵器は、88式7.5センチ野戦高射砲約50門、99式8.8センチ要塞高射砲4門であったが、ほかに20ミリの高射機関砲や高射機関銃があって、低空で吸収する敵にはおおむねこれで応戦していた。88式野戦高射砲の発射速度は3秒間に一発。初速は秒速720メートル。最大高度は7500メートルとある。だが、到達高度を上げるために、安全基準以上の爆薬を使用したことは多少ありそうだ。昭和3年以来使い続けられてきたということは、かなり頑丈な構造だったのではあるまいか。大体3倍程度が安全基準だろうとおもうが、企画規定にはかかれていないかなり目茶苦茶な使われ方をしていた可能性もなくもないと思う。最大射程距離のほうは13600メートルだったそうだ。高度7千メートルまで砲弾が達するのに30秒が必要で、これだと目標の飛行機がのんびりジグザグに飛んでいればまず絶対あたらない。空気抵抗があるから案外その程度が限度なのかもしれない。――真空であれば、30秒後に速度ゼロとなるのなら、真上に打ち上げた場合、初速300メートルでよい計算になる。しかもその場合の到達高度は空気抵抗のあった場合よりもはるかに高くなり、4.5キロにもなる。初速720メートルなら、25キロメートル以上になりそうだ。余りに実際と異なっているのに改めてびっくりする。逆に言えば、10キロぐらいの猫を高度1万メートルから落としたとしても、地上に激突する際の速度は秒速30メートルにもならないのに、空気抵抗がないと、なんと音速をはるかに超えてしまう。――そこで目標より少し高いところで、いくつかの断片に分けるそうなのだが、余り細かく分けてしまうと、爆撃機が頑丈な場合にはまるで効果がないことになる。ビー玉程度の破片になると、せいぜい窓ガラスが割れる程度だったかもしれない。もっとも高度7千メートルで窓に穴が空いてもきっと大変だっただろう。しかし、実際の有効射程距離は、せいぜい高度3千〜4千メートルどまりで、それ以上はまったく弾と火薬の無駄だった用だ。弾丸が高度3千メートルに達する場合でも88式の場合、9.3秒かかるのが標準だったそうである。なかなかあたりそうにないと思うが、よくあたったものだ。

しかし、どうにかすると、撃った本人もびっくりするらしいが、ただの一発目であたることもあったらしい。相手のパイロットには不運としか言いようがない。なんだか知らないが、漫画みたいに偶然にヒットするという経験を持つものは案外多いのではないだろうか。絶対に当たると思って物を投げたりした場合、まるで弾道を操ることができるかのように物体同士が吸引されてゆくときがある。中学のころはときどきこんなことが起こった。そのころ週刊漫画雑誌の下に欄にちょっとした豆知識が毎ページごとに書かれていたが、その中に「中学や高校のころは、数人に一人くらいの決して少なくない頻度でガラスケースの中のこけしが回ったり時計や額縁が壁から突然外れたりする現象が起こるが、発達期を過ぎるとそうしたことは次第にやむ」とか書かれていたことを思い出す。心理学者のユングは、これを「外在化効果」と定義したことをのちに知って、「こうしたこともやはり起こるのだ」と妙に安心したものだ。しかし、こんな超常現象を肯定したことがフロイトに嫌われることになった。説明できないのだから非科学的で相手にされないのは当然だと思うが、デカルトが「われ思う」といった「思う」ということは別段相手にされない狂気だということにはなっていないようである。高校も半ばを過ぎると、もうテレパシーのようなことしか経験しなくなり、それも日常の場でそういう現象に出会うことはなくなっていった。そうして、まさにテレパシーのようなことが起こっているのが放射性物質の変壊というやつだ。放射能というものの存在が霊性の存在を示している。すなわち、物質と精神、霊性をつなぐ鍵だ。放射能こそが生命の象徴であるのにもかかわらず、短絡的な俗物たちはこれを人類の敵だと信じ込んでいる。人智の限界というやつか。


そういうところに突入してくる米軍の兵士の勇敢さには驚くべきものがあったのだろう。司令官付で、階級も少尉であった筆者の目から見た米国の兵士たちは勇敢であったが、前線の兵したいがうわさにする米兵は臆病であった。突撃時、米兵は逃げ惑い泣き叫ぶのに対し、豪州の兵士たちは勇敢に戦った。たぶん、負け戦で悔しいからそういっていたのだろう。200機攻撃してきた敵爆撃機の撃墜数を250機と報告してくるのも、前線の部隊の特長だった。「わが隊の手柄にしなければ、死んでいった部下たちが浮かばれない」というのが彼らの理屈だったそうだ。23機の間違いだとして、これを大本営に報告したところ、大本営の発表も自分の主張どおり23機であったのでほっとしたという。たぶん大本営としては受けた報告のうちの最も少ないものをおおむね戦果として公表していたのだろうと思うが、一般には異なることが言われているのだろう。


高射砲陣地にはP38などの双発爆撃機だけでなく、B25などの重爆の標的にもなった。急降下爆撃と違って、30メートルほどの高さから中型爆弾を落とすので、それぞれの爆弾に落下傘をつけてゆっくり落とさなければならないという。P38ライトニングなどは塗装も施していず、一面シルバーで中世の騎士を思わせる勇猛ないでたちで、こちらが攻撃されているのに、太陽に燦然と輝くその勇姿にしばし見とれていたそうだ。いざとなると恐怖感など吹き飛んでどうでももよくなるらしい。

不思議の国のアリスではないが、軍隊の国ではいろんなことがさかさまで、泥棒などにしても、盗んだほうよりも盗まれたほうに責任があった。盗まれるということは、それだけぼんやりしていて間抜けだったからで、軍人にあってはならない隙だらけだと言うのだそうだ。そういわれてみると、確かにそんな気もしてくる。なんとなくさかさまというか、これは好ましいことのようにも聞こえるのが、陸軍では上官も一兵卒も同じ食事を取っていたということだ。海軍のように、上のものは特別食で、食後にコーヒーウォッカ差し入れなどということはなく、おおむね平等であった。資本主義権では、富裕者が各種贅沢におぼれる暮らしを送っているという点は、海軍と同じだ。戦後陸軍が低評価だったのは、それが非資本主義的な面を持っていたからではないだろうか。

ただし、「もう大本営に全員玉砕と伝えてしまったから」という理由で、事情を知らずに命からがら逃げ帰ってきた部隊に、全員自決の命令が出されたというバカみたいなことをしたのも陸軍だったそうだ。ラバウル参謀が禄でもなかったのだという事も考えられる。

降伏後もラバウルに占領軍が上陸するまでにはなかなか日にちがかかり、漁労などをして暮らしていたそうだ。9月になってやっと豪州軍が上陸してきたが、日本軍の兵士が近づくと散開して銃口をこちらに向けている。「それがオートマチックか、散々それに苦しめられた。ちょっと見せてくれ」というと、バカと見えて、実弾の入ったままの銃を渡されたそうだ。びっくりしたがあれこれ見ていると、向こうにいた軍曹らしい人物が仰天して「ヘイ!ゴーバック!」と怒鳴りつけられた。しばらく笑いが止まらなかったそうである。

一方、捕虜にしていた中国兵などは降伏したとたんに凶暴になり、自分は将校だったからまだましだったが、撲殺された日本兵も何人かいたという。


豪州軍司令部の発表には、「日本軍の今まで各地における残虐行為に対する報復として、国際上の捕虜としての待遇を与えず、日本軍に対し一日十二時間の労働を課する」とあったのでびっくり仰天して仲間の将兵に伝えたが、誰もかも「そんなの当たり前ではないか!」とまるで相手にされなかった。陸軍全体主義社会とはそういうものだったのかと思う。しかし、筆者のような考えの持ち主もかなりいて、戦時中は思ったほど一欧億総ロボットなどといったものではなかっただろう。人みな同じなんていうのは、高度成長期の日本社会のほうがひどかったと思う。


参考になるところがなかなか多い小冊子だった。


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