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zoom RSS 「永遠の飛燕」

<<   作成日時 : 2016/02/20 17:14   >>

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日本軍では初の液冷エンジンを搭載した戦闘機だ。最高速度は、初期型で590キロとまあまあだ。正式には、三式戦闘機というらしいが、ウィキの評判はあまりよくない。米軍は「もっとも撃ち落としやすい戦闘機」と揶揄したほどだというが、筆者の田形竹尾氏は実戦でグラマン戦闘機と戦って逆に撃破している。わざわざ「愛機」と銘打つからには、自身の魂を機体に込めている分自在に飛行できたのだろう。筆者のプロフィールを見ると、いささか愛国の傾向が強くて、技術的な冷静さとはややと異様な気もするのが、欠点と言えば言えそうだ。宮本武蔵タイプの戦う男といった印象か。しかし、鈴木五郎氏の本など見ても、撃墜王などとして名は乗っていない。

そんなことを思いながらしばらく読み進んでいると、案の定宮本武蔵のことが述べられていた。2次元の平面内で決着のつく県の試合と比べて、3次元の空中戦で勝利するのははるかに難しい。上下の動きを勘案しなければならないからだという。「難しいのは相手にとっても同じだ」などという理屈は通用しないだろう。難しいとは、下手な相手でも運が良ければ勝てる。そういうことを言っているのかもしれない。運を味方につけるのは次元が増えるほどに困難になってゆくのだろう。筆者は戦時中空戦に赴いた戦闘機を「日本空軍」のものとしている。その言葉に自由な精神を感じる。むしろ、こうしたどうでもいいような言葉遣いに正確性を求める人間には、かえって閉塞的な息苦しさを覚えるものだ。

わずか2機の飛燕戦闘機で、36機のグラマン戦闘機の大群に挑んでいく場面があるが、こういう場面で瞬時に敵戦闘機の次の行動を読み取ることのできる能力というのは、まさに「心眼」そのものではないかと思った。単に飛行機を操作するだけでも難しいというのに、多数の相手を見て、敵の速度、加速度までよく見分けられるものだ。昔の剣士が殺気を感じたというのは、近場にいる敵の発する熱だとか息遣いを感知したのだろうなどと推察できるが、戦闘機のパイロットが殺気を感じるとはどういうことか、戦闘機に魂が乗り移ったとしか解しようがないではないかなどと思った。

テストパイロットの心得などについても手短に描かれていて、右手の使い方、左手の使い方、両足の使い方とある。五官を研ぎ澄ますことのほかに大事なのは「心眼」を身に着けることだという。心眼とは、五官と霊感が一体となった第六感のことらしい。「殺気」を感じるのはこの心眼であって、五官によっては不可能に決まっている。見えない物体を心に映じるのが「心眼」だ。波多き人生にも、この原理は通じるそうである。

この戦いで射殺した敵戦闘機グラマンパイロットの死体が見つかったので、火葬するという話がある。敵の兵士だから、その辺の海に捨ててしまうのかと思ったら、一応供養のようなことはしたらしい。「祖国アメリカのために戦った勇敢な兵士」なのだから当然と言えば当然だが、いったい鬼畜米英などとはどこの誰がこしらえ挙げたものなのだろうか。天津で中国兵の奇襲攻撃を受けた時の、やはり敵の死体を丁寧に弔ったという。やはり「祖国中国のために」だ。それが普通で、敵の兵隊だから粗末に扱うというのは机上の空論のようなものだと思う。やはり戦後マスメディアの偏った教育が生んだひずみなのだろうが、ひずみの中に暮らしている者たちは大概自分のゆがみに気が付かない。

ふと、中島敦の『名人伝』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BA%BA%E4%BC%9Dというのを思い出した。弓の名手の話だ。ひねもす小さな点ばかり凝視していると、次第にその点が巨大なものに見えてきたというほどの話である。大体これが心眼でものを見るという事に通じるのかもしれない。錯覚と言えば錯覚なのかもわからないが、名人本人にしてみれば現実である。非常な短編だから、いま一度読み返してみたが、学生の時に味わったような感銘は特に受けなかった。その代わり「(こうしたことを今日の道義観を以て見るのは当たらない・・・)」という的外れな箇所に目が留まった。人の評価も変遷する。改めてみると、やはり孔子は優れているのではないか。荘子や老子のほうが格段に上手だなどと軽軽なことは口に出すべきではない。大体において孔子は外界での活躍に重点を置いている。老子は内面のみだ。内面だけの逸話のほうが重みがあるように見えるのは古今東西同じである。それは表層の文面だけしか見ることができないからだ。

田形氏は、日本における航空機初飛行の一人徳川好敏(とくがわよしとし)に面会したというから、相当歴史を感じる人だ。また日本で初めて空を飛んだ人は表具師の浮田幸吉(1757−1847?)だそうだ。確か以前「飛行機物語」を読んだ時にはそういったことは書かれていなかったような気がする。戦闘員としては当たり前なのかもしれないが、事細かにいろいろなことを記憶しているのには脱帽する。10人や20人と対戦しても、すべて順番通り正確に覚えていそうな感じだ。いったいどうやったらそういう境地になれるのだろう。

歴戦の戦士の自伝を読むと、日本軍は大変に強かったという印象を受けるのだが、考えてみると、歴戦を生き抜いた部隊というのは敵の何倍も強かったから生き抜いたのだといえる。身の回りの日本兵は他を圧倒する威力があったのだろう。だから戦争を生き抜いた兵士の自伝を読んだものはたいてい自分の国の兵士が一番強かったように錯覚するのではなかろうか。特に驚いたのはアメリカ兵の戦いぶりで,自由な行動が保証されていたにもかかわらず、日本軍でも危険が多すぎて突進できないような場所に平気で突撃していったということだった。

奇縁により26歳の時、インド独立の父チャンドラ・ボース氏の右腕と言われたインド軍陸軍中尉ヒワリ・ボース氏に出会い、「インドが独立したらば、貴官を大統領専用機のパイロットとして迎えたい」と言われたそうだが、無条件で信じてよいものか、この辺はどうだかわからない。戦争に負けたのだから、もちろんこんな話はご破算だ。

筆者の言葉だが、アメリカは日本よりも一年早く学徒動員のようなことをしていて、太平洋戦線で日本軍と戦っていたとある。連合軍が開戦当初相当な苦境に立たされていたとするならば、日本軍にこう言ったうわさ話が真実として広まっていたという事は理解できる。ただアメリカの学生は日本とは異なり、自ら志願する形で戦地に赴くものが多かったというから、日本の常識で考えて、アメリカでも学徒動員が行われていたに違いないと思い込んだのだろうと思う。日本の学生は戦地に赴いて国のために命をささげようなどというものはまずゼロだったようだ。

学徒動員というと哀れのようであるが、当時の生活一般を考えると、大学へ進学することなど、中流階級ではまず無理で、かなりの資産家のいわゆるボンボンでなければならなかったはずである。数十軒に一軒くらいの割ではなかったかと思える。ボンボンが戦争に行くというのは、貴族の出自であればともかくとして、一般成金の子息が愛国心から戦場へ赴くことなどまずありえなかったはずだ。それどころか、高等教育を受けるものは、兵役を免除できる特権があったので、一般庶民からはおそらく相応の非難さえ受けていたはずなのである。むしろ、学徒動員令(理科系を除く:技術者は必要だから。東条英機首相の息子も飛行技術者で、戦争に大いに貢献したらしい)はそうしたエリートの特権を奪うことで、国民全体に平等に徴兵を強いることによって、一般庶民に一種の安心感を与える政策だったともとらえることができるだろう。高等学校へ進学できるものさえ、いわゆる中流の平均的家庭では少なかったのではなかろうか。今でいうニートみたいなものの集まりだったのかもしれないではないか。半分くらいは、箸より重いものは持ったことがないというタイプだっただろう。貧乏人にはごちそうに思える軍隊での食事も、大半の学徒たちにとっては豚の餌のようだったともいう。赤紙なるものが配られるようになってからしばらくの間、農村の青年たちは『なんで俺たちだけが』という目で学生たちを見ていたようにも思える。今では学徒動員というと、悲劇の主人公のようにとらえる向きが盛んだが、『ちょっと待った!?』というのもありではないか。あの辺の映像で悲しみに暮れているのは、超上流階級の家庭ばかりであって、一般庶民ではない。こう考えてみると、一般人では、アメリカの青年のほうがはるかに根性があったようにも思えてくる。兵隊の質が逆転したのも、敗因の一つだろう。

米空母への最初の特攻として、昭和19年10月19日に阿部信弘中尉が決行したことを挙げている。組織的に行われた最初の神風特攻の6日前だったそうである。もちろん阿部中尉は自分自身の意思で決行し、しかも1年も前から考え、航空技術者の実刑にこのことを相談していたそうだ。飛行機を爆装すれば威力は何倍にもなると聞かされたが、速度も旋回性能も格段に落ちることとなるので、爆装はしなかったという。飛行パイロットとしての経験を十っ分に積み重ねた中尉でさえ、重い爆弾を抱えての突撃では体当たりできる確率は低いとみていたのだから、飛行技術の浅い神風特攻隊員のほとんどがいたずらに撃ち落とされるだけの運命となったことはたやすく想像できる。海面上数メートルの超低空飛行ができなければまずダメだったと思う。最初から無駄だとわかりきっていた抵抗であった。それにもかかわらず、少なからずの戦果を挙げたとすれば、それはただ無心の操縦技術の生んだ賜物だろう。いずれにせよ、後々の日本存続のことだけを祈って決行した作戦だったのだと思う。

かなりの部分、戦争当時の常識のまま暮らしてきたという感じだが、そういう生き方を続けてきたというのも、彼が心眼を会得し、自由自在に世の中を闊歩できたという証明でもある。





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愛機こそ、戦友の墓標 光人社NF文庫 田形竹尾 潮書房光人社発行年月:2015年05月 ページ数:3


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