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zoom RSS 「戦闘機『隼』」を読んで

<<   作成日時 : 2016/02/27 15:09   >>

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また光人社の文庫本からだ。文庫本で廉価なので、ついこちらになる。それに簡単で中学生になればまず読める程度の内容のものが多い。こんな本ばかり読んでいてはバカになるのではないかという不安も少し感じる。碇義朗氏の作品だから、結構技術的な話もあるだろうと思う。昭和48年に出した単行本の文庫版らしい。

隼の愛称は、飛行第六十四戦隊の戦隊歌「隼は征く」からとったものだという。ユーチューブにその歌があった。↓
https://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w

最初に、P51ムスタングの話が出てくる。前者は対戦中期に作られたもので、速度は時速700キロ以上、小回りもゼロ戦並みに聞くという代物で、戦争初めからある隼などでは到底太刀打ちできそうにないものだ。隼の最高速度は500キロに過ぎない。もっともムスタングにしろ、エンジンを英国ロールスロイス社の「マーリン」にしてから強力になったらしい。

それでも、「ムスタングなどちょろいもんさ!」などと言ったとか言わないとかいう隼パイロットがいたというから驚きだ。攻防は筆を選ばず見たいなもので、作戦勝ちなのだろうか。作戦計画が勝利への第一条件で、飛行機の諸元は第二なのか?


隼戦闘機は中島飛行機の小山悌(やすし)技師長(1900−82)が設計したものだ。九十一式、九十七式、一式「隼」、二式「鍾馗」、四式「疾風」などの陸軍戦闘機だけでなく、重爆撃機「呑龍」、6発重爆撃機「富嶽」を設計したのも彼だという。まあ、富嶽は設計だけで、試作もできなかったが。小山技師長は英語、ドイツ語のほかフランス語も得意で、むしろ通訳としての能力を買われてか最初から採用されたらしい。そのほうの才能も豊かだったらしい。

戦闘機では、急降下時の急激な引き起こしや、激しい旋回運動などを行うため、最大揚抗比を超えた大きな迎角を使うことがしばしばある。そうすると失速するのがが、そうならないために、翼の付け根付近が失速しても、翼端は失速しないよう、表面の流れを内方に向ければよいとある。これをインフローというそうだ。こうすることにより、最後まで補助翼が効き、失速をまぬかれる。逆に、アウトフローすると、早く翼端失速が起こり、補助翼が利かなくなるそうだ。部分的に失速が始まっても、飛行機全体をコントロールできる。翼の付け根付近に起きる失速状態は、この部分のフラップ(下げ翼)によって回避できるのだそうだ。このために、主翼前縁をまっすぐな形状にし、後縁を緩やかなテーパーとした。そうすると一式戦闘機隼とゼロ戦は似たようなフォルムとなる。ゼロ戦は三菱重工の堀越二郎技師の設計だが、別人が設計してもよく似たものができるというのが面白い。ただし、細かいところを見ると全然違うらしいが。

日本軍が翼面加重の少ないいわゆる軽戦闘機に徹底的にこだわったのは、1938年(昭和13年)春以降の97式戦闘機の大活躍が原因であるそうだ。たぶんそうであるように思う。本書を読む前は、重戦闘機の「重」とは、重火器のそれであるかのように思っていたが、結果似たようなことになるにしろ、重量あるいは重力の重と見たほうがよさそうだ。それから、日本社会が目新しいものに容易になじまない性格も影響しているだろうが、これは別の言葉でいえば「ものを大事に長く使う」という心がけにつながる。たいていの物には短所もあれば長所もある。どちらを拡大してみるかの問題で、本質的な問題であるようには思えない。ただ視点を変えてみれば欠点であって、非難の対象になるというほどのものに過ぎない。

日本軍の用兵者の考えたことも、運動性能は97式戦闘機と同程度にすることであった。ただ速度をアップするという要求を満たすのはそれほど難しくはないが、小回りも聞かせるというのが難しい。とりあえず日本軍初の引き込み脚を採用することにした。もっとも参考にしたのが、アメリカのチャンス・ヴォートV143単座戦闘機だったという。機体構造や偽装にしても大変良く似ていた。ゼロ戦にしてもそれは同じで、だから、アメリカでは今でも、零戦や隼はV143のコピーだという説があるそうだ。そもそも、部品の多くはアメリカ製なのだと思う。そうした国と戦争してしまっては、もう戦闘機が作れなくなってしまうのに、実際は戦争したのだから運命は奇なものだ。

こうして作成した隼のプロペラだが、2枚と3枚があるそうだ。飛行機のプロペラが薄いのは、空気の粘性から考えれば何となく直感でわかる。扇風機のように空気だけ押し出せばよい場合は粘性を無視して船のスクリュープロペラのようになっている。粘性のため、羽根が速く回らないが、そのほうが風が遅くて気持ちがよい。船のスクリューなどは、遅く回さないと、泡ばかり出てちっとも効率が良くならない。

零戦という愛称が戦争末期になってようやく広まったのに対し、陸軍の「隼」の愛称が広まったのは早かったそうで、初めから一般に普及し始めたそうだ。たぶん的国語の使用が原則禁止されていたのと関係があるだろう。「れいせん」などではどう考えても愛称にはなりそうもない。ご霊前という響きのほかに、超貧乏(零銭)という感じもするからだ。ごろの良い「ゼロ戦」とはなかなか呼べなかったのだろう。

脚引き込み機構に加えて、プロペラピッチ変更機構も、またまた同じく米国に学んだ。ハミルトン・スタンダード社(*)の特許を買って模倣した。まだ昭和16年の大戦前だからそういうこともできたわけだが、アメリカのおかげで戦争できたのに、その相手がアメリカでは腹も立っただろう。実に恩知らずな話だ。おおむね太平洋戦争が始まる数年前までは、米航空産業の最大の輸出先は中国で、その次が日本であった。この両者で全体の4分の1を占めるというお得意先だ。それを思うと、この点はどう見ても、恩をあだで返したとしか言いようがない。
(*)ユナイテッド・テクノロジーの一分派だという。

この文庫本にも、爆撃機「富岳」の製造計画について書かれている。計画そのものは、開戦後半年という早い時期に建てられていたことが強調されている。今になっても、『そんな考えは戦後に登場した夢物語だ』などと決めつけている向きが多いことは、前にも書いたことだが、極めて残念なことで、これが日本人の保守性、臭いものにはふたの性質の表れなのだろうかと思うと、残念どころか腹も立ってくるというものだ。日本の大勝利疑いなし、という時期だったから、「このままでは日本は敗北する、昭和19年には米軍の空襲が始まり、20年後半には日本の国防体制は根底から覆されるだろう」という中島知久平の危惧は全く受け入れられなかった。しかし、戦後になって1946年の8月にアメリカが飛行させた6発エンジン付き、全備重量150トンの大型爆撃機XB36の姿を見ると、プロペラエンジンが翼の後部についている点を除けば、富嶽のコピーと言ってもよいくらいによく似ている。

敗戦後の小山悌は全く航空産業を離れた。中島飛行機に対するGHQの戦後処置は最も苛烈なもので、彼が追放解除となって上京したのは昭和27年、50歳になってからだという。すでに戦後日本の生き残る道は林業しかないと、林業機械化協会を設立して副会長を務めていた小山は、引き続きその道を進む。55歳になった時、何の準備もなしに林業技術史の国家試験を受けたところ、なんということもなく合格した。それで60になった時に、東大農学部に論文を提出してみたら、これにも合格して、農学博士の学位をえた。昭和37年のことだ。年を取ったからと言って、頭脳までがめっきり衰えるものではないという事を裏付けるような話である。




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