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zoom RSS グラマン戦闘機

<<   作成日時 : 2017/09/02 08:32   >>

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久しぶりに戦時の本を読んだ。アメリカも相当必死だったのだということがよくわかる。戦争初期の日本軍驀進のころだけではなく、ドイツ降伏後になってもロサンジェルスなどでは日本軍の空襲に備えて灯火管制を敷いていたというなんともヒステリックな対応を思い出す。現在当たり前のように伝えられている、「アメリカは何でもかでも突出していた」というのはやや違うのではなかろうかとさえ思う。

読んでいて少し気に入らなかったのは、名機の中にベルP−39エアラコブラが入っていなかったことだ。この機は連合国側には評判が悪かったが、ソ連パイロットには非常に評判がよく、ドイツ軍のメッサーシュミットなどとも互角に対抗できたという。共産圏のものはすべて悪いという昔の雰囲気が少しばかり感じられないでもなかった。何しろドイツ総戦力の75%、それも最新兵器のほとんどが東部戦線に注がれていた上に、日本軍の抑えも必要だったのだから、戦争が終結したのはほとんどソ連のおかげだといってもよい。ソ連崩壊まではヒトラーのほらだと思われていたことである。



はじめの方の写真に、雷電21型、スーパーマリン・シーファイター、F6F−5ヘルキャットの3機が並んで飛行しているものがあるが、なんともグラマンヘルキャットだけ見栄えが悪い。なんとなく遅そうな感じがするが、飛行機の速度など車と比べて全然操縦者の技量によって異なるので、性能表などほとんど参考にならない。特徴的なのは飛行時よりも格納時の格好だ。蝉みたいである。グラマン社の航空機の愛称は大概「〇○キャット」だ。F6Fの最初のFはファイター(戦闘機の略。次の6はグラマン社での機種製造番号。次のFはグラマン社に割り当てられたアルファベット。グラマンだからGではないかというと、Gはグッドイヤー。ボーイングはB、ダグラスはDだから、最初は会社の頭文字を当てていたのかもしれない。その辺は適当らしい。F4コルセア戦闘機のチャンス・ヴォート社はU。これなど斜めに書けばCにも見えそうだ。陸軍機はもっといい加減で、一貫した規則のようなものもあまりないようだ。

本書では、1895年1月4日生まれのルドイ・ランドル・グラマンが、1930年1月に「グラマン航空機会社」をロングアイランドの古ガレージで設立したことが手短に書かれている。最初は海軍に勤務していたが、航空隊に希望していたのに、配属は潜水艦隊だったという。航空機についてもかなり専門的なことを学んで、特異な設計は引き込み脚だったという。

グラマン社は初めのうちは複葉機の開発に力を入れていたが、単葉機のほうが速力が出せるので次第にそちらの方にシストしていった烏だ。その過程で大いに参考にしたのが、海軍の査定で差をつけられたブリュースター社のバッファロー戦闘機であったらしい。しかしブリュースター社の欠点は生産が実に遅いことだった。いくら性能評価が高くても、肝心の生産が遅いのではだめだというので、またグラマンの出番となったらしい。

F4F−3シリーズではまだ主翼が固定されていて、折り畳み式になっていなかった。艦載用としては不便だった。そこで英海軍は「主翼を折りたたみ式とし、12.7ミリ機銃を6梃としたものを100機」という要求を出した。1940年半ばのことで、すでにドイツ軍の侵攻が始まっていた。主翼が折りたたみというのが大事なところだと思う。コンパクトに羽をたたんで休んでいる場面にはあまりお目にかかったことがない。そこで供給側のアメリカも要求通りのものを生産して、1941年の3月からイギリスに引き渡すと、これがかなりの好成績を収めた。そこでアメリカでもこの改良型を戦力に加えることとし、開発したのがF4−4だ。1941年4月14日が初飛行だから、かなりやることは速い。今はビル1つ建てるのにも何か月もかかることが多い。まるで呪文をかけられたようにやることが遅い。当時であれば500キロ爆弾でも破壊できないような頑健なビルも数週間で作れたらしい。

そのF4F−4が量産に入ったのが1941年の12月で、ちょうどパールハーバーの奇襲の時だ。だからパールハーバー事件の際に日本軍と戦うことの出来たのは、オアフ島基地の第211海兵隊戦闘飛行隊のF4F−3であった。攻撃を受ける4日前にエンタープライズから供給された12機だ。しかし、パールハーバー急襲のほうを受けて、哨戒に飛び立った4機を除いて、残りは36機の日本爆撃隊にやられてしまった。何もしないうちに新品を4日で破壊された。しかし、残る4機のF4F−3で日本軍の航空機を5機ほど撃墜し、爆弾も駆逐艦に投下したという。零戦1機撃墜の戦禍も上げたが、結局は全滅したという。

その後、1942年2月20日に日本軍勢力圏で発見された空母レキシントンの戦いでは、たった一機で4分間に5機の一式陸攻を撃墜したオヘア大尉の話が書かれている。彼の乗っていたのも、F4F−3「ワイルドキャット」だった。一式陸攻は、レキシントンからの対空砲火でも2機が落ちるほどの“ワン・ショット・ライター”であったようだ。日本軍の方でも自ら「一式ライター」と呼んでいた。こういう具合に乗組員を機体とともに失ってゆけば、次第に米軍パイロットの経験値だけが突出してゆく。

F4Fワイルドキャットと零戦21型とを比較すると、性能諸元では零戦のほうが優位なようであるが、鈴木氏はそう極端に戦力の差があったわけではなく、1942年の秋以降はワイルドキャットが逆転したとしている(様でもあるが、ゼロ戦の方でもその後対策を考えたらしいと思うが、どうもこの辺ははっきりとしたことが書かれていない)。アリューシャン作戦で、アクタン島の湿地に不時着転覆した零戦を徹底解剖した結果、時速400キロ以上になると補助翼の効きが悪くなり、右横転に時間がかかることが分かったからだという。パイロットの腕にしても、どうもパールハーバーの奇襲時にしても、日本パイロットのほうがアメリカ側の倍も器量が上回っていたというわけでもなさそうである。零戦の得意技が宙返りからの後方回り込みだといっても、凡庸な操縦者にそれが可能だったとも思えない。これではのちにF6Fヘルキャットが出てくればさして勝ち目はないように思われるが、現実はそうでもなかったらしい。あまり性能の変わり映えしないワイルドキャットの場合は、空中戦の勝利はまず零戦側であったという。性能がぐんと勝るヘルキャットの場合でもともすると零戦が勝利したというから不思議なものだ。しかもヘルキャットが出るころには日本パイロットの技量もベテランパイロットの相次ぐ戦死で格段に落ちていた。どうしても空中戦で勝負したいというお互いのパイロットの心情のためなのだろうか。しかもベテランになるほど空中戦で技を発揮したいものなのかもしれない。空中戦になってしまうと、必然的に低速になるので、小回りの利くゼロ戦が結局有利になるのだろうか。それに速度にしても、高々時速数十キロ程度の差では話にならない。これだと空戦時の速度は零戦のほうがだいぶ上回っていただろう。ヘルキャットは重すぎてすぐに動けないのだ。慣性の法則というやつである。

すべてトータルすると、戦争後半で米軍機は日本軍機の10倍強力だったことになるが、これは単に米軍のほうが戦力に勝っていたからだろう。零戦と戦う場合でも、敵1機に対して、必ず2機のペアで向かうのを事としていたのだから、勝って当たり前なのだが、どうして零戦が勝つ場合があったのだろうか。多勢に無勢というのは確かにあって、2倍の敵と同等の勝負をするにはこちらの腕が2倍強くても駄目なのだ。

このわけについては鈴木氏が一部種明かしをしている。零戦はいっときヘルキャットの真後ろに食らいつき、7.7ミリ機銃を撃つ。しかしヘルキャットのパイロット及び燃料タンクにつけた防弾装置は厚く、人は傷つかず火もはかない。今度は20ミリ機関砲を撃つ。しかし発射速度が遅いため弾道が定まらず、ベテランのようにうまく急所に当たらない。そのうち体勢が入れ替わるか、ペアを組んでいたもう一機のヘルキャットが零戦を追う。零戦の射程よりかなり遠くから、腰だめ的な12.7ミリ機銃6梃の発射速度の速い弾丸が、バラバラとあちこちに命中する。防弾装置のほとんどない零戦は、まるでライターのように火を発し、あえない最期を遂げる。・・・こうしてみると、運よく20ミリ砲が命中した場合は零戦が勝ったようである。

F4の次の艦載機がF6であるのは、F5は単発ではなく、双発であったからだ。運動性は多少犠牲にしても、高速とダッシュ力で、一撃離脱を狙うというタイプだ。1940年3月に完成して、愛称をスカイロケットとしたが、予想に反して速力が出なかったので、ヴォ−ト社のコルセアに敗れた。そこで新たにF6Fの設計となったのだが、F4Fの開発の経験が生かされ、通常の半分の期間で完成された。1942年の6月26日には初飛行に成功した。海軍もその優れた性能を見抜き、初飛行の一月前には量産を命じていたという。

F6FとF4Fが大きく異なる点は足の引き込み方式だ。F4では胴体の横にそのまま収納していたが、F6では90度ひねって主翼に折りたたむようにした。その他はエンジンが倍になったくらいで似たり寄ったりだというが、より不細工になったことは確かだ。重量の割に、運動性能は零戦よりやや劣る程度に過ぎなかった。wikiには、重量過多のため着艦時に脚が折れる事故が多発したとあるが、本書には「荒っぽい着艦を行っても、まず脚が折れるという心配はなかった」とある。探せば両方見つかるだろうが、どちらが多かったのかというと、データは古いが鈴木氏の方が本当に近そうだ。

F6Fの初陣は、1943年8月31日のマーカス島攻撃だそうだ。同年1月16日の配属以来、空母「エセックス」艦上での半年の訓練を受けてのちのことだった。

グラマンはF6Fと同時期にアベンジャー雷撃機TBFも生産している。この雷撃機[Torpedo Bomber]もまた大活躍していたものだが、後方に機銃を装備しているとはいえ、雷撃機で戦艦に向かっていくのは相当の恐怖だろうと思う。アベンジャーはのちにゼネラルモーターズで多く生産されたので、こちらをTBMという。


1943年11月末のギルバートの戦いでは、零戦24機と、F6F−3ヘルキャット50機との空中戦で、零戦側が6機を失ったが、ヘルキャットを7機以上撃墜したとある。2倍の数の敵に打ち勝ったとは、なんとも理解しにくい話である。この場合、たまたま双方が遭遇したため、格闘戦を行わざるを得なかったのだろうが、未確認の4機を合せれば11機の撃墜とはなんとも驚いた話である。戦いは時の運もかなり影響しているのかもしれない。あまり優秀な機体にのると、逆に気力というものがしぼんでしまうとも考えられる。

1944年の4月からは、F6F−3に代わってF6F−5の生産に移った。夜間戦闘用のレーダー装備のため、速度はやや落ちたが、主翼内側の2艇を20ミリ機関砲に置換し、より攻撃力を強化した。陸軍も海軍のこの機を借用して使用していたという。大体飛行機乗りは日本軍でも、自分たちのことを空軍だと自負して海軍上官のいうことはあまり聞かなかったくらいだというから、ましてアメリカの航空部隊などほとんど空軍だったのかもしれない。

筆者は、アメリカに比べて日本の戦闘機は発展性がないなどとし、頭の固さの方を問題視しているきらいがあるが、戦闘機製作に米国製の部品が使えなくなってしまっては新作ができないのは致し方なかっただろうと思う。もともと純国産性の航空機づくりが不可能な時点で見切り発車した戦争であったから、2年くらいは大したものができないのが当たり前なのであった。

マリアナの七面鳥などといわれ、米軍の大勝利だと今ではなっていることも、米軍にしてみれば案外擬声も多かったのかもしれない。1944年6月下旬、米軍機が引き上げるころには、日はとっぷりと暮れ、慣れない夜間飛行のため、約80機が海中に失われ、日本軍に撃墜された14機を加えると94機の損失、52名が死亡した。日本軍は400機ほどを失い、約700名のパイロットが戦死した。だから数だけ見ればアメリカの大勝利なのだが、それでもパールハーバーの時のような効率はなかった。犠牲になった方から見れば、かなりの損失だ。「西部戦線異状なし」と上官に告げられ『戦友が死んだのに何が異常なしだ!』と思う兵士の話を思い出した。

さらに、日本軍の敗北が決定的となった1944年10月24日の空中戦の記録が残っているらしい。零戦約40機対ヘルキャット7機(本には2機で15機撃墜としか書かれていない)の戦いだ。零戦側には戦う意思がなく、そのままマニラに向かっていた。どうやら素人集団のようだ。時期的に考えてみても、ベテランなどそう残っていそうもなく、腕は米軍パイロットのほうが断然勝っていただろう。それでヘルキャット側は零戦を15機ほど撃墜したが、どうも1機も落とされなかったらしい。1機も落とせないとはどうも射撃も相当下手だったようだ。操縦するのがやっとだったのかもしれない。20ミリ機関砲を撃てば反動で自機が失速する程度だったのかもわからない。戦闘機のスペックなどよりも、パイロットの腕や精神力が重要であった時代の先頭というものをしみじみと感じる。空中戦の相対速度が比較的遅く、電子戦というものがなかった時代だ。こういう場合にはとりわけパイロットの「心眼」というものが威力を発揮する。件の40機の零戦乗りなど、恐怖に包まれてまるでコチコチに固まっていたのだろうと思う。いくら下手でも40機が7機に負けるというのはばかげた話だ。剣豪宮本武蔵でも数名の敵に囲まれたら到底太刀打ちできなかっただろう。だから武蔵は頭を使って常に一騎打ちの形に持って行ったのだ。それから戦争後半に作られた零戦は個体差が大きく、連係プレーが出来ないため、単独で戦闘に挑まなければならないという欠点もあったらしい。航空技術に精通しているわけでもなく、技術力など全くないにわか作りの学徒たちの作った戦闘機だから、そもそもいい加減なものだったということも考えられる。零戦自体もぼろい作りだったのだ。

ヘルキャットが無敵といえるくらいに強くなったのは、レーダー装備による野戦が始まって以降のようだ。これは現在の自動追尾型とまでは行かないが、ほぼそれに似たロックオン方式に近いものらしい。当時は戦闘機の方から敵機に近付いていく必要があったが、大体似たり寄ったりだ。モニターを見ながらレーダーに映ったぽっちが大きくなったなら射程距離に入ったという合図で、そこからいきなり機銃かまたはロケット弾を発射する。だから暗闇の夜戦ではまず負けることはなかった。敵味方識別装置などもそのころには全機に設置されていて、同士討ちの心配もなかったという。おまけに後方警報レーダーもちゃんとついていた。昼間はお互いが目視できるので、素人が操縦する零戦相手でもそう簡単には勝つことはできなかった。零戦の20ミリ機関砲が当たれば、いくら装甲が厚くても一発でやられてしまうからだ。B29のような爆撃機でさえ、ベテランの零戦乗りがアタックすれば、20秒か30秒で撃墜できたらしい。
(*)同士討ちは日本軍のほうによくあったという。戦争末期には特にそうであって、日本軍の高射砲の命中精度が高かったのも、誤認を防ぐ目的もあったのかと思う。それでも雷電戦闘機などはよく敵機と間違われて撃ち落されたという。


さて、F7Fというのはまた双発の艦上戦闘機だ。双発であるとスピードも出るし、中心部に重砲が装備できる利点もある。小回りが利かないので採用されなかったらしいが、初飛行は1944年の7月6日だという。愛称は「タイガーキャット」だ。もともとゼロ戦の真の対抗馬としてF8F−1の試作命令が海軍から出されたのが1943年の11月2日であったという。やはりいまではゼロ戦を凌駕する戦闘機であったと一般に言われているらしいが、F6Fヘルキャットが零戦よりも強かったというのは、あくまでも1機をペアで相手にしたからであって、1対1ならば軍配は零戦側にあったのだろうが、ベテランパイロットが次々と討ち死にしていく過程で、F6Fヘルキャットがいつの間にか零戦より強くなっていったに過ぎなかったのだろう。

それでF6Fでも間に合うと思っていたのか知らないが、もう少しで勝てるという頃になって紫電改という戦闘機が出てきて、これにはヘルキャットでは全く対抗できない。2機がペアになってかかってもともするとやられてしまう。それでやっぱりゼロ戦と1対1で容易に勝てるような戦闘機の必要性を改めて認識した。

「ゼロに対抗するには大きな機体では小回りはきかないし、上昇力も同党まで引き上げるには小さな機体に強力なエンジンをつけるしかない」ということで、F6Fをより小型化することにすることが決定し、風洞テストが盛んにおこなわれたのが試作F8Fの始まりである。何事も大きい方がよいと考えるアメリカ人が小型化を悟るまでにはかなりの苦労が必要だった。パイロットにしても狭いコックピットに閉じ込められるのには抵抗があったし、イギリスの技術者たちもクレームばかり着けてきたようである。

それでも総重量3.96トンと、F6Fの5.78トンと比べるとぐっと軽量のものができた。「紫電改」の4.0トン、「疾風」の3.75トンと比べてみても、それほど重い方でもない。これなら紫電改にも対抗できるだろうと考えたようである。1944年8月30日が初のテスト飛行の日となった。愛称は「ベアキャット」。同年12月31日に量産1号機が海軍に送られた。最高速度は高度5260mで700キロ近い。上昇力も、高度6100mまで5分40秒と、ゼロ戦を上回り、戦闘機としては最高水準であった。1945年の5月には実戦配備して訓練飛行に移り、11月の九州上陸オリンピック作戦に参加する予定だった。しかし陸軍が原爆を投下し終戦を早めようというのを知って、それかあらぬか、投下には猛反対したが、押し切られてしまう。結局日本が早々に降伏したので、ベアキャットが実践で活躍することはなかった。終戦後は民間に買い取られて、レース用に使われ、ピストンエンジンとしての優勝記録を打ち立てた。

太平洋戦争の終結は1946年の春ころともくろんでいたらしいグラマン社は、あらかたの注文をキャンセルされてしまい、大いに困ったことになった。仕方がないので、全従業員2万2千人をすべて解雇し、改めて5千人を採用することにしたそうだ。

終りの方に、鹵獲したゼロ戦とベアキャットとの模擬対戦というのが載っていたが、低速における運動性だけはまだ零戦の方が上だったという。4000メートル以上の中高度になれば、まず負けることはなかったというが、何年も前の旧式戦闘機を相手にしても、最新型が簡単に勝てないというのには驚いた。これではヘルキャットでは勝ち目はあまりなかったというのが真相かもしれない。米軍が勝利したことで一種の神話が生まれたのだと思う。もっともアメリカの正式な技術者の整備によるのだから零戦の性能の方も完璧だっただろう。零戦対ヘルキャットの模擬対戦のデータもあったに違いないが、あまり零戦が勝つので癪に触って公表はやめにしたのかもしれない。戦争中の技術革新はものすごかったというのに、4年も5年も旧式の戦闘機がいつまでも強かったというのはなんとも理解しがたいことである。魂を持った戦闘機という表現が当てはまるとしたら、ゼロ戦こそがそうした戦闘機であったといえそうだ。

戦争集結後、5年もたたない内に問題が起こり始めた。特に朝鮮半島では、1950年6月25日から限定局地戦争が勃発した。この時に出撃したのがヘルキャットだった。完全なドローンとしての利用である。戦前からアメリカはドローンの研究に積極的であったが、太平洋戦争後、ついに実験機の作製に成功していた。つまり無人機のコントロール操作による神風特攻隊作戦だ。神風よりもはるかに優れた命中率であった。北朝鮮の陣地めがけて飛び込んでくるヘルキャットを見て、共産軍は「ついにアメリカも神風をやるようになったか」と驚いたそうである。この時のドローン化されたヘルキャットの利用を最後に、F6Fの役目は終わったそうだ。誘導ロケットの元祖を作成したのはそもそもナチスが1943年代に行ったことだが、戦後になってもなかなかできなかったらしい。それにしても、ナチスドイツの巨大工場群と新兵器の数々の写真を見ると、あんな国によく勝てたものだと仰天するばかりである。やはり数の多さというのは恐ろしい。兵器の性能が2倍あっても、数が2倍あったら大概負ける。まあ、大概のものは戦時中にあれほどの巨大兵器がたむろしていたことを知ると、決してそれを信じないだろうと思う。今より進んでいたのではと思うところも多々ある。

ドイツでも戦争後半に小型の空冷式フォッケウルフという戦闘機を実戦配備したが、この戦闘機を鹵獲してもアメリカは零戦ほど詳しく調べなかったという。日本では戦闘機にしろ爆撃機にしろ、戦後の民間航空機を念頭に置いていたのではないかと思わせるようなものが多いからかもしれない。航空産業で、太平洋戦争で講和に成功すると考えていた人はまずいないだろうからだ。

ドローン作戦というのは、原子の正体がわかる1900年よりも前に、ニコラ・テスラが米海軍に提案していたものだ。もっともテスラのものは無人ボートであるからドローンではないのだが、この時はばかばかしいといって海軍では相手にしなかったらしい。太平洋戦争の終わり凝りになって、夜戦に電子兵器を多用し、夜戦での勝率を100%近くにし、それが朝鮮戦争で開花したことを知ると、原爆同様技術開発速度が今とは比べようがないほど速かったことに改めて驚きを禁じ得ない。ではなぜ圧倒的に有利な夜戦に終始しなかったかということになるのだが、それは好みに合わなかったというしかなさそうだ。

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