個人の意識では過去は見えない

渦状銀河には渦巻きがあると思う人が普通であるが、実は渦などというものはないのだということもいえるという話はこの前ちょっと述べた。のべつ幕なしに寿命の短い青白い星ばかり特定の領域で作られていると、どうしてもそれは渦にしか見えない。そうしてその渦は全ての渦状銀河で回転方向を同じくしていて、常に渦を巻きこむ向きであるとされている。しかし、一瞬後にはすべての銀河で逆回転を始めるかもしれない。何億光年も何十億光年も離れた銀河で大規模な同調運動が一瞬の後に起こるかもしれないとは大体考えていないだけのことである。地球磁場の逆転が過去何度も理由もわからず逆転したということが記録されているし、たぶん太陽だって気まぐれにそういうことはしばしば行っているだろう。

人間のような思考動物でも、岩のような無機物でも、本質的に何ら変わるところはないのだ。昔、生物だけがエントロピーを減少させるなどといった人がいるが、あれは何か思い違いなのではないか。宇宙が凝縮して太陽が誕生し、諸惑星が進化してゆく様はまるきり拡散的ではないではないか。

渦状銀河の渦がどちら向きか否かなどにはかかわりなく、われわれに渦の様相が認識できるのは、われわれが渦の外にいるからである。そうして我々が渦の構成員ではないからだ。渦の構成員はただ生成消滅を繰り返しているだけであるから、どんなに観察眼が鋭くても渦は見えはしない。個々の意識ではごく限られた体験しかできないのである。個々とは無機質の場合も有機質の場合もある。特に人間のように想像を働かせることの出来る有機質ともなれば、めいめいが最も好む想像物だけを渦として任意に取り出すことが出来る。

それがめいめいの人生の渦であって、歴史の渦などというものはありはしない。さもあったという風に書きものを織りなすことはできる。単にどういう服を着こなそうかという選択と極めて似通ったものだ。ただあったという思いが非常に強いものでしかない。「歴史の波、時代の波に翻弄されて」などといわれれば、さも本当にそんなものがあったと思うだろう。戦争などというものはまさにそんな感じだが、そういうさなかにあってさえも、99%の人間にはまさに戦争とは現実だったが、1%のものには現実であったのか幻だったのかはわからない。まして90%のものがあえいで暮らしている中で、残りの10%はどうだったかはわからない。かの世界大恐慌の中でさえ、街中で餓死するものが後を絶たないというのに3割ほどのものは全く恐慌とはかかわりのない暮らしをしていた。

多分、いつの時代でも、繁栄するものがあれば、同じくらい没落するものがいる。そして大多数はその中間だ。それも多くの場合繁栄も没落も主観的な気分で決められる。

このように考えていくと、バブル時代の繁栄などいよいよ大嘘だ。20%のものもそんな恩恵は受けていないだろう。ただ世間がそう報じているから多くのものにとって気分は悪くなかったというだけの話である。それが今ではみな謳歌していたなどと歪曲されているだけだ。そして過去は頭の中の化学反応によって常に新しく作り替えられていくものだから、もう全く記憶そのものが過去を映してはいない。

偽りの記憶づくりなど簡単にできる。マーク・トウェインは「私は人生で何度もひどい目にあったが、中には本当に起こったこともある」といっていたという話があるそうだ。実際に起こらなかったことでも、何個か都合の良いものだけを取り出して理由付けができると、人は毎晩寝ている間に無意識にそれを書き換える。この脳のメンテナンスの入り口のノンレム睡眠で見る夢が記憶の書き換えと関係があるらしい。レム睡眠で見る夢は記憶とは関係ないらしい。だから冷静なものでないとそれが偽りの記憶であることに気が付かないのだ。ウィキには「過誤記憶」として載っている。これほど記憶があてにならないものであると聞くと、人々の生証言などというものは全く信用できない。過去の想起も未来の想像も脳の同じ場所で行われることが心理学の実験で分かっている。そうすると過去記憶に想像が混ざっていることも大いにありうるわけだが、過去と未来では、想起と創造という言葉の使い方が逆のようだ。ただそのことだけで人は過去と未来が異なっているように感じている。同じ化学反応であるのに妙な話だ。健忘症患者というものは、過去のことを思い出すのが困難であるというだけでなく、たいていは未来のことを想像することも困難であるという。

そうして今人も旧人も共通して愚かしいことは、嘘のほうが真実に見えることから、嘘の記憶の方が真実だと思い込むことである。そこからいうと「バブル時代は華やかであった」というのは案外ありそうにもない。マーク・トウェインはまた、「自分が多数派に回ったとわかったら、しばらく落ち着いて反省してみるべきだ」ともいっている。多数派が事実だとしていることもたいていは嘘だということでもある。真実を語るものはいつでもひどく不人気で、世間から嘘つき呼ばわりされるものだ。


現代においても古代においても、よほどの引きこもりでない限り、一般社交人は今を生きているつもりであっても、ほとんどすべての情報を過去から得ている。インターネットやテレビの発達した現代においてはそれはなおさらである。太古の人間が今得られる情報などほんの数時間前のもので全てだったといえるが、時代が進むにつれて今は過去に向かって拡大した。それで数日前のことは実在し、今の瞬間も変わらないのだと思い込んでいるものがいそうである。現在と過去を同一のものとしてみている人が多くてもおかしくない時代だ。多少の幅をもって今を認識したとしてもおかしくはないが、2日とか3日前がいまだというのでは少し長すぎるようにも思える。現代人は過去が創作だということに気付きにくいのだともいえそうだ。創作だということに気が付けば、書き換えも自由に可能だということにも気づくはずだ。

たぶん多くの人が思い込んでいるのは、学習によって植え付けられた固定的なものを記憶だとしていることだ。大化の改新が645年であるとか、そういうものだ。かつて恐竜がいたことなんていうのもそうだといえる。しかしそうしたものは厳密にいえば記憶とはいえない。自分自身で体験したものではないからだ。実際に自分で体験した時間とある程度の空間のあるもののことを特にエピソード記憶などといって、上記の意味記憶と区別している向きもある。しかし、ニュースで報道された事件などはしばしば個人的体験として記憶されてしまう。テレビなどのない時代にはこうしたことは起こらなかっただろう。それらは運動の記憶であって流動的であり大きさというものを持っている。時間軸が逆向きになって再生されることも多い。原因と結果が逆になるのである。

個人個人の独自のエピソード記憶を、各人がより正しいと思う方向へと徐々に書き換えていくのが社会に蔓延する塊となった概念だ。太陽系の塵が徐々に集まって次第にまとまった惑星を形成していくように、この固まりも次第に巨大なうわさ話となってゆるぎない集団化した巨大な塊となってゆく。「みんな言ってるから」という単純な理由で人とは異なる自分自身の記憶を書き換えてしまう。一世代も経過するとこの固まりは一つの共有化された記憶として固定されてしまうのだ。こうしてもともとはほかの記憶と比べてさして目立った大きさではなかったものが時代の風景として語り継がれてゆくことになる。

この前さ迷い星の話をしたが、ヒトの過去の記憶も常にさ迷っているのだ。なぜ同じ方向にばかりさ迷うのかというのには、ランダムウォークの例を示せば十分だろう。ランダムウォークだから中央が最も濃くなるかというとそうはならない。騎兵面あるいは球面に広がった方が数が多いからだ。記憶は平面ではなく立体だ。平面よりはずっと多様性に富んでいる。そうした多様性が時間の経過により一点に収束するというのは、どのような時代でも起こりうることだ。

社会通念、ことにアメリカのような勤勉な国家から見れば意外なことだろうが、働くから不況が訪れるという考え方もある。日本も大体において明治以降において、終戦後は政府の命令のように勤勉になった。元来怠け者の国民性なので、生産性はひどく悪い(*)。勤勉であることがよいことのようにもてはやされて、皆がそうしだしたのが、大停滞の原因かもしれない。せいぜい1割か2割のものが勤勉であるだけなら、渋滞もなくすいすいものが運んだだろう。全員勤勉だと詰まりっぱなしだ。戦争中8割の人間が戦闘に加わって、労働市場から見たら完全に非生産性という点でのらりくらり遊んでいたとおなじなのに、どこでも不況はなかったのは怠けていたからかもしれない。怠けることも大事な役目なのだ。子供が多い国が盛況なのもそのせいだろうかと思う。勤勉とは自分の繁栄ばかり望んで社会全体の幸福を考えない身勝手な行為なのではないか。一斉に出口に押し寄せて誰一人外に出られなくなった状態は愚かしいというべきなのだろう。大不況とはそういうことなのだと思う。「普通の賃金労働者が、一日4時間だけ働いたなら、すべての人に満足を与え、失業者もないだろう」というバートランド・ラッセルのことばを思い出す。戦時にはほとんどの男女が生産的な業務から引き抜かれたにもかかわらず、連合国側の賃金労働者の生活水準は戦前戦後よりも良かった。もしも戦後も戦時中の組織のまま働く時間を4時間に下げてしまえばそれで世の中はうまく回転していただろうが、戦後になると皆一斉に働きだしたのでたちまち不況になったという。働きすぎが諸悪の根源だ。古代ローマ人は知らなかっただろうがこの点で彼らは賢明であったといえる。午前中しか働かなかったからだ。もちろんそのころには勤勉を奨励するような風潮もなかった。朝から晩まで働いても不況にならない社会は生産性が低かったからだ。生産性が高い時代には社会構成員はすべからく過度に働いてはならない。暇を余計にするか、あるいはもっと働くかは、投票で決めてもよいという。利益をもたらすのがよいという考えがすべてを滅茶滅茶にしたのだとラッセルはいう。ラッセルとは違う意味だが、松下幸之助なども、一人の時では貧乏だったが、結婚して二人になったら同じ一人分の稼ぎで豊かになったことを不思議がっていたそうだ。彼もまた「あなたのせいで世の中が滅茶滅茶になった。責任はとってもらおう」と高名な禅師にいわれて、松下村塾を作ったのだという。
(*)日本はどちらかというと、成果主義ではなく努力主義だ。アメリカのように生来勤勉な国民なら成果主義をとるだろう。だから日本ではさっさと仕事を終えて帰るような人はたいていひどく不人気である。会社の経営者にしても大体そう思うようになってきている。あまりに造作もなく通常は困難な仕事を成し遂げてしまう人を高評価するということは、評価する人物がかなりの辣腕者でない限りできないものだ。机にへばりついて汗水たらしているものを見ると、見た目だけはさも熱心に仕事をしているように見える。もともとやる気がないので机に座ってぼんやりとしながら、視線だけは書類に向けているのが日本人の国民性だ。

思うに、ラッセルの方法、効率よく働けるものが他者のために奉仕することで不況がなくなるという手法を、最も簡単に実現できそうなものはベーシックインカムであると思う。そうすれば、仮に国民の半分が8時間働いても、残りの半分は何もせずぶらぶらしているだけなのだから、実質皆が4時間働いたのと同じ効果が得られる。社会は半分資本主義でありながら、不況というものがなくなるのだ。実際には人間の修正として、周りにのらくらしたものがいなくなればどうしてもペースが速くなるので、4時間分以上のものを生産してしまうだろう。もしかすると半数の人数で以前と同じ分を生産してしまうかもしれない。思いもよらず効率的な国家群運用の方式であるかもしれない。

世迷いごとかもしれないという最近の社会通念に、高齢者ドライバーの自動車事故が増加しているというのがある。若者の事故が減少しているのは当たり前といえば当たり前だ。総数が減少しているのだから、たいてい減るのが普通だ。一方で高齢者の数は年々増加しているのだから増えてもおかしくはない。増えているのか減っているのかこれだけではわからない。75歳以上の免許取得率は老人の上昇率よりも何倍か多いらしい。運転時間が減ったのかもしれないが、どうも高齢者ドライバーの事故は減少している可能性のほうが大きい。ひょっとすると、若者の運転事故の割合は増加しているのだが、絶対数の減少と若者の車離れが事実を逆向きに覆い隠しているのかもしれない。これなども最近気になる社会バイアスといえる。

人間というのはどうしても周囲と同じことをしたがる。先日女子高校生が7名ほど集団で倒れた事件があったが、引率者は「同情して皆で倒れたのだと思う」と語っていたそうだ。他人と同じことをしなければ無駄なこともしないで済むのだがそれがわからないのが常だ。大体10人いれば8人か9人は平均でいようとする。なんとも不思議なものだ。


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