健康に執着しないことだ

春なんていうものはいちいち訪ね歩いて探さなくても季節が来れば向こうからやってくる。「道は近くにあり、しかるにこれを遠きに求む」ということでもある。

私は健康本など読むのが趣味であったが、そのたぐいの書物を書いている筆者をユーチューブなどで目にしても、ちっとも若々しさというものがない。ヨガ行者などは2倍くらい年を取って見える。50歳の人はもう相当の老人に見える。100歳は行き過ぎにしても80歳には見える。これはなぜだろうと思うと、肉体の若さに執着していることが原因ではなかろうかと思うわけである。同じ日本人を見ても、長寿で体力自慢という人が健康に気を配ているかというと、そんなことは気にせずに好きなものを食って、気が向いたら寝るような生活をしているものが割と多いようである。血圧なども高めの人が多い。

もと、「生老病死」は苦しみでしかないと懸命に諭したのは釈迦牟尼であった。まあ、生も苦しみだとしたのが釈迦で、生は喜びと希望なのだとしたのが輪廻を信じないニーチェであったようだ。もしも輪廻転生がある世界で、生が楽しいことであったのなら、人々は死を逃れようとして皆自殺するであろうから間もなく地上に人がいなくなる。

これら4種の苦の中で、最初の生苦を除いて、老苦・病苦・死苦には、各々について「こうなりたいという」かなえられない欲望が付いて回る。すなわち、老いの恐怖に対してはは若さへの欲望、病気の恐怖に対しては健康、死の恐怖に対しては生の欲望によって、人々は己の恐怖を鎮めようとする。しかし、何としてもこれらは実現不可能な夢でしかなく、執着すればするほど恐怖はいや増す性質のものでしかない。この3つのものを追い求めるのは非常な時間の無駄であって、邪心ともいえるものだ。なんとも本末転倒したようなことに、自分の第一の望みさえ犠牲にして、若さや健康を求めるだけのために人生のほとんどすべての時間を使い切ってしまうようなものさえ現れる始末なのだ。ただ問題を先送りするだけではなく、高齢になればなるほど無様な死を迎える確率は増してくる。

四諦などというと、仏教の話だから自分の人生には関係ないと思うものが多そうな今の世の中である。まあ昔から人々は「理法を聞く前にも、聞いた後でも、それを理解しようとはしない」というのが洋の東西を問わない事実ではあった。4つの諦めとは「苦集滅道」のことで、その最初の諦めが「生老病死」である。悟りに至る道に入るまではすべてのものに共通したことであって、別段宗教云々とは関係ない。どうすれば楽に生きられるかという道だ。諦めなければ、齢を重ねるごとに苦しみが増すばかりだということである。

釈尊が苦行を禁止したというので、初期の禅仏教などではただ寝転がってゴロゴロしながら瞑想している集団もあったらしい。楽道などといって、このくらいになると、不具者を特に珍重したという荘子の道教とあまり変わらない。怠けているようにしか見えなかったので人気はなかったという。それで全体にあまねく座禅を取り入れて恰好だけは何とか整えようとしたという話がある。めいめいがひたすら自由な教団であったらしい。釈迦の原始仏教の教団も案外そうだったのかもしれない。徹底的に楽を追求するので、そのことは執着となって堕落の原因となったとも考えられる。昔夏目漱石は、「禅の坊さんほどの道楽者はない」といったそうだが、仏教のほうでは「俗楽」と「道楽」は別物だとして、道楽に励むことが肝要であり、道楽は富を貯める楽の16倍の功徳があるとしているらしい。お金を貯めることは大変よろしいというのが、イエスのキリスト教とは正反対だ。しかし楽は楽でそれほどの区別などないだろう。道楽は道楽で仏道でも世道でも変わりはなく、ただ熱量がたまるとか溜まらないかの違い程度なのだと思う。

どうやら仏教というのは根本的に苦よりも楽を求めるもののようであるから、欲望というものも別だん否定はしない。激しい欲望、情熱といったものはだめだが、小欲というのはオーケーで、適当に分限をわきまえた欲に従うことなら何をやっても別段構わないらしい。欲のないものはその辺に転がっている石ころと同じで、命というものがない。心の動きというものがないから、苦を滅尽して楽になろうなどという欲望が起こらない。求道の心が湧き起こらないような説を主張する非現実的な夢の教義というのは話にならないから、欲というものは必要である。

「ゆく川の流れは絶えずして」などと、とかく仏教というと諸法無常のイメージがあるが、仏陀は大自然が無常だとは言わなかったようである。仏陀にとって課題はいつも人間であって、自然のことになると必ず口を閉ざした。自然が無常だといったのは、むしろ外道のほうだったかも知れない。外道の説でもうまく吸収して自己独特のものに出来るのが優れた知者のふるまいだともいえる。要するに白黒はっきりさせずうやむやにしてしまうところは、今どきの政治家のやり方とよく似ている。だから仏陀もそのころは散々悪し様にけなされていたに違いない。仏陀の説法などというものも、どうやらいわゆる先生という感じのものではなくて、仏陀が質問して弟子が答えるというやり方だったようだから、知らない人が見たらそれほど偉い人には見えなかっただろう。
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